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東京地方裁判所 昭和37年(つ)5号 判決

請求人 福井正雄 外一九四名

目次(略)

(註釈)

本文中における証拠説明に当り、頻繁に使われるものについては、次のとおり略記した。

(略記) (証拠説明の趣旨)

・証人何某の「……」旨の供述(受命)がある………当裁判所受命裁判官の証人何某に対する尋問調書中に同人の「……」旨の供述記載がある

・被疑者何某の「……」旨の供述(受命第一回)がある………当裁判所受命裁判官の被疑者何某に対する第一回取調調書中に同人の「……」旨の供述記載がある

・証人何某の「……」旨の供述(裁判所)………当裁判所の証人何某尋問の際における同人の「……」旨の供述

・被疑者何某の「……」旨の供述(裁判所)………当裁判所の被疑者何某取調の際における同人の「……」旨の供述

・何某の証人調書(受命)………当裁判所受命裁判官の証人何某に対する尋問調書

・何某の証人調書(裁判所)………当裁判所の証人何某に対する尋問調書

・何某の調書(受命)………当裁判所受命裁判官の被疑者何某に対する取調調書

・何某の調書(裁判所)………当裁判所の被疑者何某に対する取調調書

・民事事件証人調書………東京地方裁判所民事第一八部係属の昭和三五年(ワ)第七九六七号原告福井正雄外二三名、被告国及び東京都、被告東京都補助参加人末松実雄間の国家賠償請求事件の証人調書

・民事事件原告調書………右事件の原告本人調書

・何某の検察官調書………何某の検察官の面前における供述を録取した「供述調書」と題する書面

・調査票………第五機動隊員が検察官の求めに応じ、検察官に宛て、本件当時における各自の出動状況、実力行使の際の具体的状況、体験又は目撃事項等について記述提出した書面。なお、括弧内の数字は記録の冊数

・答申書………第五機動隊員が同機動隊長に宛て、本件警備実施中の各自の行動、体験及び目撃事項等を記述提出した「答申書」と題する書面

・何某の人権調査書………東京法務局人権擁護部に係属の昭和三五年(特)第五六号六・一五デモの際における警察官の暴行陵虐事件記録中、調査対象者何某の法務事務官の面前における供述を録取した「調査書」と題する書面。なお、括弧内の数字は記録の冊数

・人権陳述書………右事件において、調査対象者が係官に宛て、各自の被害の部位、程度、加害者の風貌特徴等、被害を受けた時の状況、当時見聞した同僚の被害状況等について記述提出した「陳述書」と題する書面。なお、括弧内の数字は記録の冊数

・調査報告書………右事件において、法務事務官が調査対象者から調査事項につき事情を聴取した結果を上司に報告した「調査報告書」と題する書面

・身長体重についての照会回答書………当裁判所の照会に対する警視庁警務部長又は退職、転勤した第五機動隊員らからの本件当時及び現在(昭和三八年)における第五機動隊員の身長体重についての回答書

なお、本件現場附近の場所関係の理解を容易にするため、国会附近図一枚を末尾に添付する。

決  定

請求人 別紙請求人名簿(一)、(二)の一九五名(略)

右の者らから別紙被疑者名簿の四四七名を被疑者とする刑事訴訟法第二六二条第一項の請求があつたので、当裁判所は次のとおり決定する。

主文

本件各請求を棄却する。

理由

第一、本件に関する不起訴処分の日及び本件請求の日

東京地方検察庁特別捜査部(以下東京地検特捜部と略称する。)検察官は、昭和三七年一一月一〇日付をもつて、後記第二の一に掲げる如き被疑事実【ただし、不起訴裁定書において暴行傷害の被害者として氏名を特定掲記された者は、別紙被害者名簿(1)ないし(121)、(129)の計一二二名である。】につき、いずれもこれを不起訴処分にした。

そして、同月一五日から同月一九日までの間に、同被疑事実【ただし、告訴、告発において傷害の被害者として氏名を特定掲記された者は、別紙被害者名簿(1)ないし(34)、(37)ないし(72)、(92)の計七一名の範囲内である。】の告訴、告発人に対し、郵便はがきをもつて、右不起訴処分の通知を逐次発した(ただし、本件請求人丸木政臣は告発人であるのに、同人に対し右通知を発したと認めるに足る資料がない。)ところ、同処分を不服としてまず同月二四日清水義汎外九八名が本件の請求書を東京地検特捜部検察官に差し出して本件の請求を起し、ついで同月二七日に大森とく子外一八名及び山川達也外一五名が、同月二八日に松井康治外七名が、同月二九日に横山正彦外九名が、同月三〇日に荻野博外八名が、同年一二月三日に三井礼子外八名が、同月八日に坂東克彦外八名が、同月一七日に清水昇外一二名が、そして最後は同月二九日に一柳俊夫外二名が、それぞれ本件の請求書を東京地検特捜部検察官に差し出して本件の請求に及び、結局別紙請求人名簿(一)、(二)掲記の一九五名が本件の請求をしたのである。

このことは、本件の各請求書(委任状等添付書類を含む。)、不起訴裁定書、東京地検特捜部部長検事河井信太郎の各回答書(東地特捜発第一七四一号38・5・27付及び東地特捜発第三〇五三号38・11・19付)並びに右回答書第一七四一号添付の処分結果通知簿写(複写機による写)等により明らかである。

第二、本件の被疑事実及び請求の趣旨

一、被疑事実

(一)  昭和三五年六月一五日東京都千代田区所在日比谷公園において開催された「大学・研究所・研究団体集会」に集つた大学、研究所、研究団体の教職員ら(以下大研研と略称する。)は、日米安全保障条約改定阻止国民会議主催第一八次統一行動の一環としての国会請願行動に参加し、同日夕刻同所を出発して衆議院第一議員会館前まで行進したところ、国会議事堂南通用門(以下国会南通用門と略称する。)附近で警視庁警官隊が学生の集団と衝突し、学生側には数百名にのぼる多数の死傷者が出たとの情報に接して、その事態を憂慮し協議した結果、教師としての立場上学生を放置していることはできず、負傷した学生の救護並びに今後におけるかかる衝突を未然に回避させるため尽力すべきであるとの結論に達し、同日午後九時頃国会南通用門近くの衆議院車庫前路上に到着した。

(二)  大研研は、同所に到着するや、負傷学生の救護並びに学生集団と警官隊との衝突を未然に回避するため、直ちに交渉団を選出し、これを国会構内に送りこみ、交渉団をして警察側、学生側双方とその交渉を行わしめ、他方においては在京各大学医学部に救護班の派遣を求め、又茅東京大学学長、大浜早稲田大学総長等に対し事態収拾のため来院方を要請した。このようにして大研研は、負傷学生の救護と今後は警官隊と学生集団が衝突することのないよう努力しながら、衆議院車庫前路上において静かに交渉団の交渉結果を待つて待機していたものである。

(三)  しかるに、被疑者らはいずれも警察官であり、警視庁が同日から翌一六日未明に亘り国会周辺等の警備を実施した際、被疑者小倉謙は警視総監、同玉村四一は右警備の警備総本部長、同藤沢三郎は右警備の国会周辺を担当した第一方面警備本部の本部長、同末松実雄は警視庁第五機動隊長であつて、それぞれ部下警察官を指揮し、又その余の被疑者らは同機動隊所属隊員として、国会周辺において国会議事堂等警備の職務を行つていたのであるが、被疑者らは小倉謙指揮下に共謀のうえ、昭和三五年六月一六日午前一時一六分頃国会議事堂正門(以下国会正門と略称する。)附近で催涙弾が投てきされるや、末松実雄以下の第五機動隊員らにおいて、前記衆議院車庫前路上において静穏に待機していた大研研約四〇〇名に接近し、大研研参加者らが「ここは教授団です。」等と通告し、各大学、研究所等の記名入り高張提灯、プラカード、襷及び腕章等を示したにもかかわらず、「かわまわないからやつちまえ。」、「ぶつ殺せ。」等の暴言を吐きつつ、多数の威力を示して、警棒、旗竿等を振りあげ、殺意をもつて無抵抗の大研研に襲いかかり、逃げ迷う大研研の人人の頭部を強打し、足を払つて路上に叩き伏せ、高さが一・八米程ある塀越しに放り投げ、首を絞め、果ては倒れた者を泥靴で踏みにじり、必死になつて逃げる大研研の人々を前記衆議院車庫前から特許庁まで追跡して、更に殴る蹴るの暴行を加え、大研研の参加者約四〇〇名の略全員に対し、暴行陵虐の限りを尽し、よつて少なくとも別紙被害者名簿(1)ないし(34)、(37)ないし(41)、(43)ないし(72)、(122)ないし(128)の計七六名の者に対し、同名簿の傷害の部位程度欄各記載の各傷害を負わしめたものである。

二、請求の趣旨

(一)  被疑者らの所為は前記の如く、殺意をもつて、大研研の略全員を襲撃し、これに無差別に暴行を加え、殊に後頭部を強打したりしたものであつて、幸いこれが未遂に止どまつたとはいえ、今後大研研の人々に対しその身体上並びに研究上如何なる支障が生ずるや測り知れない状態に陥らしめたことは最も悪質残虐なものであるのみならず、民主的文化国家を根本から否定する暴徒の所為に等しく、警察官にあるまじき所為という外ない。以上の警察官の所為は、刑法第一九五条(特別公務員暴行陵虐)、第一九六条(同致傷)、第二〇三条、第一九九条(殺人未遂)、暴力行為等処罰ニ関スル法律第一条第一項違反の罪に該当する。

(二)  しかるに、右の被疑事実につき請求人らから、告訴、告発を受理した東京地方検察庁検察官は十分捜査を尽さないで、被疑者らを不起訴処分にした。このような検察官の処分は国民の到底納得できるものではなく、請求人らは検察官の右処分には承服することができず、被疑者らを当然起訴すべきものと信ずるので、刑事訴訟法第二六二条に則り、事件を裁判所の審判に付することを請求するものである。

第三、不適法な請求の有無

一、不適法な被疑事実に関する請求

(一)  殺人未遂及び暴力行為等処罰ニ関スル法律違反被疑事実

本件請求書の被疑事実及び適用条文に関する記載に徴すると、本件請求人は特別公務員暴行陵虐及び同致傷の被疑事実の外に、殺人未遂及び暴力行為等処罰ニ関スル法律違反の被疑事実についても請求の対象としていると認められる。しかし、刑事訴訟法第二六二条の規定は、告訴人又は告発人に対し、不起訴処分に付せられた同条所掲の刑法第一九三条ないし第一九六条(公務員職権濫用、特別公務員職権濫用、特別公務員暴行陵虐、同致死傷)又は破壊活動防止法第四五条の罪に関する被疑事実についてのみ裁判所の審判に付することの請求を認めたものと解すべきである。よつて本件請求は、右殺人未遂及び暴力行為等処罰ニ関スル法律違反を主張する被疑事実に関する範囲においては不適法であると認める。

(二)  主張される被害者の氏名及び被害内容が特定されていない被疑事実

本件の被疑事実及び請求の趣旨は前記第二のとおりであつて、請求人らは被害者について傷害をも負わされた者として、一応最初は別紙被害者名簿(1)ないし(3)、(5)ないし(21)、(24)ないし(34)、(37)ないし(41)、(43)ないし(71)の計六五名、その後追加して同名簿(4)、(22)、(23)、(72)、(122)ないし(128)の計一一名以上合計七六名の氏名を特定掲記したにすぎないけれども、請求書の記載内容及びこれに添付された被害者及び被害程度一覧表のはしがき等を考慮すると、この七六名の者に関する暴行陵虐致傷被疑事実に限つて本件の請求をしているものではなくて、右七六名以外の者でも右被疑事実として主張される約四〇〇名の大研研の略全員を被害者とする暴行陵虐及び同致傷被疑事実の全般にわたり、それが本件不起訴処分の対象とされた範囲のものである限り、すべてこれを本件請求の対象とする趣旨であると解される。

ところで、このように本件請求中被疑事実について約四〇〇名の大研研中、略全員を被害者とする暴行陵虐及び同致傷の事実というように各被害者の氏名及び被害内容を特定せず単に抽象的に掲記したにすぎない場合は、そのうち前示のとおり氏名を特定した以外のものに関する限り、不適法であるか否かの問題が存するが、本件において主張されている被害発生の態様にかんがみるときは、被疑事実として各被害者の氏名及び被害内容が特定掲記されていないということだけで、請求が不適法となるとは解すべきでない。

そして、不起訴裁定書によると、検察官が本件の不起訴処分の対象としたものは、別紙被害者名簿(1)ないし(121)、(129)の計一二二名を被害者とする特別公務員暴行陵虐、同致傷等の被疑事実であり、かつそれ以外の者を被害者とする被疑事実については不起訴裁定の対象としていないものと認められる。このことは、当裁判所が昭和三九年六月二日検察官有田栄二を証人として尋問した際における同人の供述に徴しても明らかである。それで、本件不起訴処分の対象とした右計一二二名のうち、被害者名簿(1)ないし(34)、(37)ないし(41)、(43)ないし(72)の計六九名については、本件請求においても被害者として氏名を掲記されていることは前記のとおりであるが、右一二二名中に右六九名以外にも大研研の者と認められるものがあれば、それの被害事実は本件請求の対象としたものと認めるべきである。そこでその各所属先を調査したところ、被害者名簿(35)、(36)、(42)、(82)、(92)の五名については、大研研の者であることが判明したから、この五名に関する被害事実を本件請求の対象であると認める。しかし、右一二二名中右六九名と右五名との計七四名を除く計四八名【(73)ないし(81)、(83)ないし(91)、(93)ないし(121)、(129)】については、明らかに大研研の者でないと認められる者か又は大研研の者であると認めるに足る証拠がない者であるから、右四八名の被害事実を本件請求の対象とは認めない。

(三)  不起訴処分の対象とならなかつた被疑事実

たとえ特別公務員暴行陵虐又は同致傷の被疑事実であつても、これに対する検察官の不起訴処分が行われる前においては、刑事訴訟法第二六二条第一項による請求をすることは許されないものと解すべきである。ところで、別紙被害者名簿(1)ないし(121)、(129)の計一二二名以外の者を被害者とする被疑事実については、本件不起訴処分の対象とされていないと認められることは、右(二)において説示したとおりである。それゆえ、本件請求に当り請求人において被害者として氏名を特定掲記した前記計七六名中、別紙被害者名簿(122)ないし(128)の計七名を被害者とする被疑事実については、不起訴処分の対象とならなかつたものであること明らかであるから、右七名の者を被害者として主張する被疑事実に関する範囲においては、本件請求は不適法であると認める。

二、請求権のない者による請求(略―〔編注〕告訴、告発をした者と認められない八名の請求者の本件請求は不適法)

三、請求権消滅後の請求

刑事訴訟法第二六二条第一項の請求をするには、不起訴処分の通知を受けた日から七日以内に請求書を不起訴処分をした検察官に差し出してこれをしなければならないことは、同条第二項に明定されている。ところで、郵政省郵務局長の郵便物の送達所要日数について(回答)と題する書面によれば、東京地検特捜部が処分結果の通知を発した頃は、全般的に第二種郵便物等の郵送が特段遅滞していた事情がなく、若干の配達局において半日ないし一日程度の遅滞があつただけであつて、北は北海道、南は九州福岡県に居住している者に宛て差し出したはがきでも、最高裁判所内郵便局からの送達所要日数は僅かに数日であつたと見込まれるというのである。しかし、前掲第一の各資料によると、請求人名簿(一)掲記の請求人の中には、不起訴処分通知発送の日から三週間以上も後に本件の請求書を差し出した者が相当おり、中には一月以上も後に差し出した者もいるのである。それで法定の期間を徒過した後に本件の請求をしたのではないかと推測される者もいるのであるけれども、本件不起訴処分の通知は、いずれも送達証明付の郵便によらず、普通の郵便はがきによつて行われたものであるため、その法定期間徒過の事実を断定することは躊躇される。それゆえ、請求人名簿(一)掲記の各請求人からの本件請求については、いずれも法定期間の徒過という不適法があつたとは認めないこととする。

四、死亡者を被疑者とする請求(略―〔編注〕死亡した被疑者二名に対する本件請求は不適法)

五、適法な請求の範囲

以上記述したとおりの次第であるから、本件請求については、請求人は別紙請求人名簿(一)掲記の者、被疑者は別紙被疑者名簿掲記の計四四七名中(259)、(357)の二名を除く計四四五名の者、被疑事実は別紙被害者名簿掲記の(1)ないし(72)、(82)、(92)の計七四名を被害者として特別公務員暴行陵虐及び同致傷の被害事実を主張する範囲が適法であると認め、以下その請求が理由あるか否かにつき検討することとする。

第四、審理の概要

一、審理の方式

本件の審理について請求人の代理人(弁護士)から、口頭及び書面をもつて、「準起訴手続は捜査又はその延長ではなく、検察官の不起訴処分を審判の対象とする裁判所による司法審査であり、対立当事者(請求人及び検察官)の関与と審判の公開とを原則とする。それゆえ裁判所は、請求人又はその代理人に対して検察官が収集した証拠及び不起訴裁定書並びに裁判所が新たに収集した証拠を閲覧謄写させ、被疑者の取調、証人尋問等の事実の取調には請求人又はその代理人に立ち会わさせ質問、尋問を尽させるべきである。」という趣旨の主張がなされた。

しかし、刑事訴訟法第二六二条第一項の請求に対する審理は、検察官の不起訴処分についての不服申立に対する裁判手続ではあるが、検察官裁定の当否の判断を直接の目的とするものではなくて、検察官の捜査手続を前提として、送付を受けた全捜査書類、証拠物を検討し、必要であれば更に事実の取調等を続けたうえで、裁判所独自の見地より請求そのものとしての理由の有無、即ち、訴追の当否を判断する公訴提起前における手続であり、検察官の捜査との関係ではその続行であり一種の捜査であると解する。それで、その審理に当つて、同法が、公訴提起後において訴訟関係人に対し訴訟書類、証拠物の閲覧等を認めた規定(第四〇条、第二七〇条、第四九条)を当然準用すべきものではなく、被疑者の取調(刑事訴訟規則第一七三条)に被告人取調に関する同法第三一一条第三項の規定を当然準用すべきものでもないと認める。又、同法が証人尋問に関し、検察官、被告人等当事者に立会、尋問権を認めた規定(第一五七条等)は、両当事者が対立する明確な訴訟関係を前提としているものと解すべきところ、同法第二六二条第一項の請求に対する審理は、前記の如く検察官の捜査手続を前提とする一種の捜査であつて、請求人の代理人が主張する如く請求人と不起訴処分をした検察官とを両当事者としこれが対立する明確な訴訟関係を形成しているものとは認められないので、その審理において行う証人尋問には、当事者に立会、尋問権を認めた同法第一五七条等の規定を当然適用ないし準用すべきものではないと解する。よつて、本件の審理に当り、当然裁判所が請求人又はその代理人に対して、不起訴裁定書及び証拠を開示し、被疑者の取調、証人尋問等事実の取調に際し、請求人又はその代理人に立ち会わせて質問、尋問を尽させなければならないという請求人の代理人の主張はとることができない。

そして本件においては、結局その審理に当り、請求人又はその代理人に対し、その主張するように不起訴裁定書及び証拠を開示したり取調に関与させたりすることは相当でないと認め、請求人及びその代理人に対しては、不起訴裁定書についても、検察官が収集した証拠についても、裁判所が新たに収集した証拠についても、一切これを開示せず、又被疑者の取調、証人尋問等事実の取調に立ち会わせず、従つて被疑者質問、証人尋問もさせないという審理方式をとつた。

二、審理の経過

(一)  検察官より送付を受けた記録(書類、証拠物及び意見書)の検討

東京地方検察庁検察官より刑事訴訟規則第一七一条に則り最初に右記録の送付を受けたのは昭和三七年一一月三〇日であるが、なお、その外に、いわゆる現場写真一枚【後記第五の四の(二)の〔3〕参照】が本件以外の事件の証拠として同検察庁に保管されていることが判明したので、それが添付されている警視庁公安部公安第一課巡査部長山本繁作成の写真撮影報告書一通の送付を嘱託し、昭和三九年三月二七日その送付を受け、以上の記録につき検討した。

(二)  民事事件記録の取寄検討

東京地方裁判所民事第一八部から同部係属の昭和三五年(ワ)第七九六七号原告福井正雄外二三名、被告国及び東京都、被告東京都補助参加人末松実雄間の国家賠償請求事件(以下民事事件と略称する。)記録を取り寄せ検討した。

(三)  人権擁護記録の取寄検討

東京法務局から同局人権擁護部に係属の昭和三五年(特)第五六号、六・一五デモの際における警察官の暴行陵虐事件記録(全五冊、以下人権擁護記録又は人権と略称する。)を取り寄せ検討した。

(四)  裁判所又は受命裁判官による被疑者の取調、検証(身体検査)、証人尋問、鑑定

(1) 主たる事実に関する第一次ないし第四次取調

被害者を第五機動隊員に対面させる方法又はこれに準ずる方法をとることにより、、加害者を特定することを目的として、次のとおりの取調を行つた。

(イ) 第一次取調

まず、受命裁判官(一人受命)をして、不起訴処分になつた(1)末松実雄以下の第五機動隊員四四四名中本件後死亡した二名【(259)石川俊雄、(357)菅野治夫】を除く四四二名について、本件の部隊行動の際警棒を抜き或いはこれを使用したことの有無、警察官以外の者に接触(暴行に限らず排除、誘導等理由を問わない。)したことの有無、行動経路及び服装、装備等の取調及び右四四二名の着衣のままの体格、容貌の検証(身体検査)を行わせた。ついで受命裁判官(一人受命)をして請求人から被害者として指名のあつた者等被害者或いは目撃者と思われる者一一六名を証人として尋問させ、本件の時暴行、傷害を受けたことの有無或いはその目撃の有無につき供述を求めさせ、更にその加害者が警察官であるとの証言をした者に対しては、右四四二名の各被疑者の正面及び側面の全身写真【先の検証(身体検査)の際に撮影されて検証調書に添付引用されている各被疑者の写真に基き裁判所書記官が作成したものであつて、各被疑者の氏名、番号等を画面上に表示してないもの】を閲覧させて、その指示を求めさせた。

(ロ) 第二次取調

受命裁判官(一人受命)をして、第一次取調により被疑者写真の中から加害者に似ている者を指示した証人(被害者、目撃者)二九名と同証人らから指示された被疑者九八名(延一一一名)をそれぞれ対面させたうえ、右証人二九名の尋問及び被疑者七七名(延八三名)の取調をさせた。

(ハ) 第三次取調

受命裁判官(二人受命)をして、第一次、第二次取調の結果等により更に取調の必要を認めた被疑者六名を取り調べさせ、又、いわゆる現場写真一枚とも関連して当裁判所により被疑者一名【(88)田辺寛】の鉄帽、制服姿の時の体格、容貌を検証(身体検査)した。

(ニ) 第四次取調

最後に当裁判所によつて、証人(9)高橋信一郎の尋問と、同証人が自己の加害者に酷似していると証言する被疑者(156)宮田頼芳の取調をした。

(2) その他の事実に関する取調

(イ) 被疑者の取調

記録上或いは審理の過程において随時必要と認めた者四四名【衆議院第二会館北門における行動、目撃に関して一一名、衆議院車庫前における行動に関して一名――(81)成沢忠彦――、答申書の作成に関して二三名、採証活動に関して四名、第五機動隊の行動等について(1)末松実雄及び各中隊長の五名】を当裁判所により取り調べ、又は受命裁判官をして取り調べさせた。

(ロ) 証人尋問

右の(81)成沢忠彦の取調に関連して被害者(1)福井正雄を、いわゆる現場写真一枚に関連して警視庁警察官四名(山田年、山本繁、上野康重、鈴木松夫)を、検察庁における捜査の経過及びいわゆる現場写真一枚等に関連して検察官、検察事務官各一名を、診断書の作成及びその記載内容に関連して医師二名をそれぞれ証人として当裁判所により尋問し、又は受命裁判官をして尋問させた。

(3) いわゆる現場写真一枚に関連する検証(身体検査)及び鑑定

裁判所によつて、警視庁警察官山田年の鉄帽、制服姿の時の体格、容貌を検証し、更に同人と右のいわゆる現場写真に写つている警察官とが同一人であるか否かの鑑定を鑑定人斎藤銀次郎に命じて、その鑑定書を提出させた。

(五)  押収

本件当時被疑者(第五機動隊員)らが着装していた鉄帽一〇個、略帽二個、服一〇着、雨具三着、警棒二本の提出を命じてこれを領置した外、任意提出にかかる第五機動隊特務写真係員四名及び警視庁公安部公安第一課巡査部長山本繁が本件の国会警備の際撮影した写真原版七本(いわゆる現場写真一枚の原版をも含む。)、撮影者山本繁・被撮影者山田年の写真原版一本及び写真一六枚、山田年が写つている各種写真一六枚、第五機動隊員作成の答申書綴六冊、報告書・答申書綴一冊及び第五機動隊長作成の警棒使用状況報告書一通をそれぞれ領置した。

(六)  公私の団体等に対する各種の照会

郵政省、東京地方検察庁、警視庁、病院・診療所、町役場等に計二五通の各種照会をした外、留学中であるため尋問ができない被害者【(41)池上栄胤】に対し本件の時暴行傷害を受けたことの有無、受けている場合の加害者について等を、又警視庁管外に転勤したり或いは退職したりした被疑者二三名に対し各自の身長、体重を、そして本件請求書の提出が比較的遅かつた請求人三八名に対し不起訴処分の通知受領の日時を、それぞれ照会し、右照会に対しては、請求人の一部を除きその余からすべてその回答を受けた。

第五、総説

一、国民会議主催の第一八次統一行動とこれに対する国会周囲の警備

(イ)歴史への証言一冊(送付書類二七の一)、(中略)等を綜合すると、次の(一)ないし(三)の事実が認められる。

(一) 警備方針と警備体制決定の経緯

国会(衆議院、参議院)当局は、国民会議主催の第一八次統一行動に際し、国民会議及び全日本学生自治会総連合(以下全学連と略称する。)が昭和三五年六月一五日行う予定の国会集団請願に対し、同月一三日に

(1) 衆、参両院はそれぞれ警察官二、〇〇〇名の派出を要求する。ただし配置については情勢に応じて両院と連絡のうえ適宜に行う。

(2) 昭和三四年一一月二七日の事件にかんがみ、院内警備については特に強硬方針をとる。

(3) 国会構内には一人たりとも不法に侵入されることのないように強力な警戒態勢を望む。もし侵入された場合は退去を要求し、これに従わない者についてはその排除又は逮捕を望む。

(4) 国会の各門は警備上の状況により適宜閉鎖する。この場合議員以外は記章所持者といえども入門させない。なお議員の入門によつて警備上支障があると認められる場合は、他の支障なき門を利用してもらうこととする。

(5) 警備部隊の待機その他について国会内外の諸施設を最大限に利用させる。

等の態度をとることに方針をきめた。そして、即日衆議院議長清瀬一郎、参議院議長松野鶴平は内閣総理大臣岸信介に宛て、内閣に対し昭和三五年六月一四日、一五日の情勢に対処するため、国会法第一一五条の規定により、六月一四日には一、五〇〇名、六月一五日には二、〇〇〇名の警察官の派遣方を要求し、更に同日一、五〇〇名の増加派遣方を要求し、内閣においては、内閣官房長官椎名悦三郎がその都度警視総監小倉謙に右警察官の派遣方を依命通知した。

右の警察官派遣方を要請された警視庁においては、警備部長玉村四一、公安部長石岡実が六月一四日中野区所在の警察大学講堂に各方面本部長、警備、公安各課長、関係警察各署長、各機動隊長、その他の係官を招集し、国民会議主催の第一八次統一行動当日には同会議傘下の各種団体及び全学連等大凡一〇万人が日比谷公園、神宮外苑絵画館前及び国会前に集まり、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」の締結を国会で承認することに反対する集団請願運動や示威運動を国会、首相官邸、米国大使館及び渋谷区南平台首相私邸の各周辺に繰り拡げる模様であり、他方右翼と呼ばれる二、三の団体では一部が都内主要地点において宣伝車を繰り出し、ビラを散布して、右条約の批准促進運動を行う外、一部は国会周辺において旬日を経ずして訪日する予定のアイゼンハワー米国大統領歓迎の宣伝活動を行うようであるが、その中で全学連主流派と呼ばれる集団については厳重な警戒態勢を必要とするとの情報を基にして、国会周辺等の警備につき会議を開いた。

(二) 警備方針と警備体制

右会議の結果

(1) 国会当局の請願取扱方針に基き、請願が平穏に行われる場合はつとめて主催者の自主的統制にゆだね、交通整理を主とした警備を行う。

(2) 国会、首相官邸、米国大使館等に対しては、不法に侵入されることのないよう、予め所要の部隊を配備し、万一不法に侵入された場合は速やかに排除又は逮捕等の措置を講ずる。

(3) 不法事犯に対しては全般の状況に応じて現場又は事後において検挙することとし、このため採証活動を活発に行う。

との方針で臨み、警視庁管内から総勢一万余人の警察官を動員し、国会、米国大使館を重点にして各警備場所にこれを配備し、

(1)警視庁本部内には、警備総本部を設け、警備部長玉村四一が総本部長として警備全般の総指揮をとり、公安部長はその補佐に、又警備、公安各課長は総本部付幕僚の任にそれぞれあたる。

(2)第一方面本部長(事務取扱。以下省略)藤沢三郎は、方面警備本部を設けて、国会、首相官邸、米国大使館を含む国会周辺の警備にあたり、その現場における総指揮をとる。

(3)第二、第四、第五、第七の各方面本部長は、いずれも右の第一方面警備本部長の幕僚として、第二方面本部長が首相官邸、第四方面本部長が米国大使館、第五方面本部長が国会構内、第七方面本部長が国会裏側を担当し、それぞれ方面警備本部を設けて各担当地区の警備にあたりその指揮をとる。

(4)第三方面本部長は、方面警備本部を設けて南平台首相私邸周辺の警備にあたり、その指揮をとる。

という警備体制を敷くことが決定した。第五機動隊はその決定した部隊配備計画により最初米国大使館の警備にあたることとなつたのである。

なお、右の会議の席上、警備部長玉村四一からは「現場における各指揮官は部隊の掌握につとめ、警棒使用については特に慎重を期し、使用の状態が違法に亘ることのないようにされたい。」旨、又公安部長石岡実からは「些細な問題にとらわれて事態を悪化させることがあつてはならない。僅かな形式的なことは黙認しても、できうる限り慎重を期し、世論の信頼をうることに努められたい。」旨の注意がなされた。

そして、同月一五日午前一〇時一〇分国会裏側の警備指揮をする第七方面警備本部が衆議院外来者休憩所に設置され、同一〇時三〇分頃には国会及びその周辺(首相官邸、米国大使館)の全般的警備指揮をする第一方面警備本部が国会正門内に、又国会構内の警備指揮をする第五方面警備本部も衆議院警察官詰所にそれぞれ設置され、他方、第五機動隊が米国大使館前に到着する等、各部隊が続々所定の場所について待機の態勢に入り、警視庁本部内には当日の警備総本部が設置され警備は開始された。

(三) 国会周囲の状況と警備措置

(1) 第一八次統一行動の概況、なかんずく学生集団の国会南通用門前集結までの行動

国民会議傘下の各団体は、東京都職員労働組合が同日午前一一時頃日比谷公園を出発し午前一一時四〇分にはすでに国会正門前を通過して国会裏側に到着したのを先頭に、続々と日比谷公園を出発して国会へ向つた。又全学連主流派と呼ばれる学生の集団は、国会正門前を集合地点とし、同日午後〇時三〇分頃すでに到着した信州大学学生約一〇名についで、中央大学、法政大学、明治大学、千葉大学、東京大学教養学部、埼玉大学、日本女子大学、一ツ橋大学、早稲田大学等の学生が続々国会周囲に集まり、午後一時三〇分頃から逐次国会正門前に集結し、午後三時三〇分頃同所において抗議集会を開いた時にはその人数大凡七、五〇〇名に達した。午後五時頃には全学連反主流派と呼ばれる学生の集団約七、五〇〇名も神宮外苑絵画館前から到着し、その頃までに数万にのぼる人々が国会周囲をとりまき、逐次虎の門、土橋方面等へと流れ去つて行つたが、その間一五日午後五時過頃参議院第二通用門附近において統一行動集団の一部である新劇人らが右翼団体(維新行動隊)に襲われるという事態も起きた。なお、全学連主流派の学生集団は、国会正面前における抗議集会後、激して蛇行進を開始し、衆議院通用門に突き当り、参議院第三通用門をゆさぶつた外、国会内に散発的に投石、投棒等をしながら国会周囲を左旋回に約二周し、気勢をあげた後、同日午後五時三〇分頃までに国会南通用門前に集結した。

警視庁では、当初第五方面警備本部指揮下の第五方面警察隊、第四機動隊、第八方面警察隊、警察学校部隊及び第七方面警備本部指揮下の第七方面警察隊を国会の各要所に内張り形式に配備し、又学生が国会侵入を企図しているとの情報に基き、各門には予め車輛で阻止線を設定した。そして、第一方面警備本部にその直轄部隊として、第一方面警察隊及び第二機動隊二個中隊を置き、警備総本部からの指示、指令、各部隊からの報告、刻々入つてくる無線車からの情報等に基き第一方面警備本部長藤沢三郎が現場の総指揮をとつて対処した。全学連主流派の学生集団が国会南通用門前に集結した時は、滝野川大隊と警察学校部隊、第四機動隊の各一個中隊をもつて同門を守つていたのである。

(2) 国会南通用門内側附近の学生集団に対する警察官のいわゆる第一次実力行使

一五日午後五時三〇分頃から全学連主流派の学生集団は、同門を突破し構内に侵入することを企て、大挙して同門に押し寄せ、門扉の補強用角材を緊縛していた針金や同門の周囲に張られていた有刺鉄線をペンチで切断にかかり、これを制止しようとして滝野川大隊、警察学校部隊第三中隊、第四機動隊第二中隊の警察官らが同門に近ずくと、竹竿で突くなどしてこれを阻止し、次々と針金を切断した。そして、同学生集団は多勢の力で門扉を押したり、引いたりして鉄製閂をも破壊したうえ、阻止線として内張りに設置した輸送車をロープを用いて引き出し、石、竿等を激しく投げこみ、更には引き出した車輛に火を放ち、警備部隊が後退する機を狙つては、その一部が午後七時過頃まで再三国会南通用門内側附近に侵入した。

警備警察側では、全学連主流派の学生集団が門扉の破壊にかかるや、第五方面警備本部長伊藤秀宏が、その指揮下にある第四機動隊二個中隊余りと立川大隊及び警備総本部の指令で南平台首相私邸の警備から転進してきてその指揮下に入つた北沢大隊と第一方面警備本部の命により転進してきてその指揮下に入つた第二機動隊三個中隊、本所、向島の各大隊等の部隊を逐次注入し、学生集団が侵入する都度実力をもつてこれを構外に排出し、或は検挙させた。又右伊藤第五方面警備本部長は、他方放水車二台の出動を求め、放火された輸送車に対する消火放水をその一台から約一分間行わせ、学生集団の侵入を阻止するために、圧力四〇ないし八〇ポンドによる上向拡散放水をその二台から午後六時三二分より同七時一八分までの間断続的に行わせ、以上の実力行使によりようやく学生集団を一旦構外に排出することができたが、この間双方に多数の負傷者が出、女子学生一名が遂に死亡した。右の警察官の実力行使は第一次実力行使といわれている。

(3) 国会構内への学生集団の侵入占拠

一旦構外に排除された学生集団は、一五日午後七時二五分頃から又々構内侵入を開始して、一層激しい投石、投木を行いながら国会南通用門から同構内に突入し、午後七時五〇分頃には衆議院本館際まで侵入し、その後も続々と侵入して警備部隊を二分し、国会南通用門内の旧議員面会所、衆議院本館第四号入口及び供待所を結ぶ地域において、侵入した学生約三、五〇〇名は抗議集会を開いて坐りこみ、午後一〇時過頃まで同地域を占拠した。

第一方面警備本部長藤沢三郎は、部隊が二分されるや、これを整えるために旧議員面会所と衆議院本館とを結ぶ線を西側阻止線、供待所と衆議院本館第四号入口とを結ぶ線を東側阻止線と定め、西側の指揮には第五方面警備本部長を、東側の指揮には第七方面警備本部長岡村端をあて、その後に増強された部隊をも含めて、西側には滝野川大隊一個中隊、第二機動隊二個中隊、第四機動隊、本所、深川、池上の各大隊を、東側には滝野川大隊一個中隊、第二機動隊一個中隊、神田、立川、久松、三田、玉川の各大隊をそれぞれ配備して衆議院前庭等への進出を防止し、他方警備総本部に対し三、五〇〇名もの大衆を一気に構外へ排除することは危険であるとの意見を添えて状況報告をし、今後の指示を受けたところ、その結果包囲対峙している現状を夜明けまで維持させることとなつた。

(4) 国会構内の学生集団に対する警察官のいわゆる第二次実力行使

ところが、同日午後一〇時過頃、学生集団は、阻止線を突破して国会構内を通り国会正面前庭へ進出しようとする行動を開始した。

これに対し、警備の警官隊は実力をもつてこれを押し返し、そのため猛烈な揉み合いとなり、午後一〇時二分頃には学生集団の殆んど全部が国会南通用門から構外に排出されたが、この間双方に多数の負傷者が出た。右の警察官の実力行使は第二次実力行使といわれている。

(5) 国会正門前における学生集団等の行動

学生集団は、同日午後一〇時三〇分頃から徐々に解散しだしたが、一部はなおも残留して国会正門前へ集結をはじめ、午後一一時三〇分頃には夜間部学生をも含めて約三、〇〇〇名が同所に集まり、警備の拠点は国会正門に移つた。その頃にはすでに国会南通用門脇路上(国会正門側)に引き出された自動車のうち少なくとも三台に火が放たれ炎上していたうえ、国会正門前に繋留してあつた計一二台位の侵入阻止用の自動車もその頃から次々と引き出され、横転炎上させられ、これに伴う火炎、爆発音、黒煙は門を挾んで対峙している警備の警官隊と学生集団に異常な緊迫感を与え、興奮した学生の集団は石、空瓶、木片等を構内に投げこんで気勢をあげた。そして、警備警察側が暴挙を中止して解散せよと繰り返す警告など聞き入れないのみか、学生集団の中からは阻止車輛を全部焼けと煽動する叫びさえ発せられた。この騒然たる異常事態は一六日に入つても依然継続し、同日午前一時過頃までに全半焼した警備警察側の輸送車は、国会南通用門前から国会正門前にかけて、一五、六輛に達し、国会正門に設置した侵入阻止用自動車は残すところ三、四輛となり、この残されている自動車も、このまま見守つているだけでは全部引き出され焼かれるのが時間の問題と見られるようになつた。そして、学生集団はなおも警備警察側に対し激しい投石を続け、国会正門内に配備の警官隊に対してさえ負傷者を次々に生じさせる状況であつたところ、学生を主とした群集は遂にロープを国会正門の門柱にかけ引き倒そうとしだした。

右のとおりの国会正門前の異常事態を収拾しようとして、前記藤沢第一方面警備本部長は、その幕僚及び機動隊長等警備現場の幹部らの意見をも徴しながら、警備総本部に対し意見を具申したりその指示を求めたりしていたのであるが、当初は、群衆を排除させてほしいとはやる一部隊長の強硬意見を制していたものの、やがて藤沢同本部長自身も内張り警戒などしているだけでは到底収拾できないと判断するようになつた。しかし、いきなり部隊を出して排除に当れば、双方共に興奮している時でもあり、怪我人が出ること明らかであると考え、同本部長は、被害を最少限度に止どめて収拾する方法は、催涙ガスを使用してまず相手側の抵抗を抑えたうえ、部隊をもつて排除し、解散させる以外にない旨の意見を警備総本部に対し具申した。ところが、警備総本部は、慎重を期し、いまだそれまでの時期、段階にあらずとして、部隊を出すことはもとより、催涙ガスの使用をも容易に了承しなかつたので、藤沢第一方面警備本部長はそのまま内張り警戒態勢を続けた。これより先、藤沢同本部長は、一五日午後一〇時二三分頃まず第三機動隊を米国大使館から国会内に転進させ、ついで一六日午前〇時七分頃(1)末松実雄を隊長とする第五機動隊の主力(第三中隊第三小隊は一五日午後六時三〇分頃すでに転進)を、又同日午前〇時一八分頃第一機動隊をいずれも米国大使館から国会内に転進させて待機させ、かつ第五方面警備本部長及び第一機動隊長を介して、同機動隊所属の放水車二台に炎上中の輸送車の鎮火並びに附近の車輛、建物等への延焼を防止する目的の放水を、同日午前〇時三九分から同一時二八分までの間五回に亘り圧力六〇ないし八〇ポンドの集中拡散式で行わせ、又〇時五五分頃には最前線に配備されていて興奮の色濃い第二機動隊を引きさげ、交代に第一機動隊をあてる等の措置をとつた。しかし、機動隊の放水車二台、消防庁の消防自動車四台等による炎上輸送車の消火活動は、国会正門前に集まつた学生とその中にいつしか混入した若干の学生以外の者からの投石等のため、放水員が放水を一時中止して退避したり或いは植木を楯に放水したりするような有様であつて、その消火活動も思うにまかせず、前記のとおり国会正門の阻止車輛は次々と焼かれ、投石のため警官隊に負傷者が続出し、国会正門の門柱がロープで引き倒されそうにまでなつてきたので、午前一時一〇分頃藤沢第一方面警備本部長は、警備警察側の人的、物的被害が増大するのみならず、学生集団等がいよいよ国会正門前に侵入してくる危機が切迫し、事態は猶予できないものと認め、警備総本部に対し、事態は猶予できないものと認められるので、直ちに催涙ガスを使用し、併せて部隊をもつて国会正門前に集結している群集の排除に踏み切らなければ、時機を逸する旨の意見を具申し、これが了承を強く訴えた。警備総本部長玉村四一も遂に、双方の被害を最少限度に止どめてこの危機を解消するには、催涙ガスの使用に併せて部隊による排除も已むをえないと決意し、部隊による排除に当つては、警棒はその使用及び取扱規程に定められている最少限度において隊長の指揮により使用する等、いやしくもその使用が違法に亘ることがないよう希望して、催涙ガスの使用と部隊による国会正門前の群集排除を了承した。

(6) 国会正門前の学生集団等に対する警察官のいわゆる第三次実力行使

第一方面警備本部長藤沢三郎は、警備総本部の右了承をうるや、直ちに第一機動隊に対し催涙ガスの使用を命ずると共に、第一、第三、第五各機動隊長に対し「国会正門前の群集を排除する。第一機動隊はチヤペルセンター側の群集を、第三機動隊は国会図書館側の群集をそれぞれチヤペルセンター前から桜田壕方向へ排除せよ。第五機動隊は恩給局側の群集を人事院方向に排除せよ。」との命令を発した。こうして、警備警察側は、国会正門前の学生を主とした群集を解散させるため、実力行使の態勢に移り、まず午前一時一四分から二分間その群集に対し広報車を通じ麹町警察署長名をもつて、催涙ガス使用の警告を繰り返し放送した。しかるに学生を主とする群集は、右警告を無視し、更に一輛の輸送車を引き出して放火し、投石を続けたので、第一機動隊は、同日午前一時一六分頃催涙ガス筒の投てきを開始し、第一回として構内から国会正門前に向け二二筒を投てきしたのをはじめとして、同一時二五分頃までの間に三回に亘り三六筒の催涙ガスを投てきした。そして、学生ら群集のひるむ隙に、第一、第三、第五各機動隊が国会構外に出て国会正門前から群集を実力をもつて全部排除した。この警察官の実力行使は第三次実力行使といわれている。右第三次実力行使に当つての第五機動隊の行動の概況については、後に三において更に記述する。

二、大学・研究所・研究団体集会(大研研、大学教授団)の行動

(イ)歴史への証言一冊(送付書類二七の一)、(中略)等を綜合すると、次の(一)ないし(三)の事実が認められる。

(一) 大学・研究所・研究団体集会は、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」の承認につき、昭和三五年五月一九日衆議院において行われた採決を契機にして、東京都下及びその隣接県下の各大学、研究所、研究団体の教職員、同地域の高等学校、小学校等の教育関係教職員、大学院生の中で、民主主義を擁護するためには街頭における団体行動等をもつて強力な運動を展開する要があるとの見解をもつ者達が集まつて、大学の教授、助教授、研究者を中心に結成された団体であつて、略して大研研と称せられ、又大学教授団とも呼ばれた。大研研は同年六月一三日頃神田の教育会館で実行委員会を開き、同委員会において、同年六月一五日に行われる国民会議主催の第一八次統一行動には自主的に参加することを決定した。そして、同月一五日午後五時過頃約三、〇〇〇名が日比谷公園に集まり集会を開き、まず、議長団に明治大学教授篠崎武、東京大学助教授五十嵐顕等三名を、又指揮班には日本教職員組合中央執行委員大学部長畠山英高総指揮の外、(3)山口啓二、(43)梶井功、(38)石崎可秀、(15)池端功等九名を選出し、続いて同年六月一三日夜警視庁が東京教育大学及び法政大学に対して行つた捜索押収を違法として抗議する抗議文を採択して五十嵐顕、石原康久ら一〇名の抗議団員【先導役の(3)山口啓二を加えると一一名】を選出し、警視庁に対しては右抗議団より抗議する一方、国民会議のきめた第一八次統一行動計画に従い、警視庁、チヤペルセンター前を通つて国会に至り、参議院第一、第二通用門を経、議員面会所前を通過して米国大使館に向い、新橋で解散するという経路で示威行進をすることとなつた。

同日午後六時三〇分頃大研研は宣伝車を先頭にして、議長団、指揮班、抗議団、参加者各団体の順に六列縦隊で行進を開始し、警視庁前で抗議団と別れ、チヤペルセンター、国会正門を経て参議院第二通用門を左折し、午後八時過頃衆議院第一議員会館前広場に到着した。この当時における大研研の人員は、途中から参加した者もあつて出発した頃よりはやや増加していた。大研研が衆議院第一議員会館前に到着した頃は、救急車が頻繁に往来していて、行き交う人々の話によると国会南通用門で多数の学生が負傷し死者も出たということであつたので、大研研は同所において情報収集をした後集会を開いた。指揮班から「この事態では危険が予想されるので、予定のコースを変更し、再度警視庁に抗議したうえ、新橋方面に向つて流れ解散する。」旨の案を出し諮つたところ、学生をこのまま放置しておくことには反対であるとの意見が強く、集会は一時議長団、指揮班以外の者の発言を封ぜざるをえない程騒然となり、結局、各グループ団体から一名宛代表者を選出し、その選出された約三、四〇名の代表者によつて今後の態度方針を協議することとなつた。そして、代表者らが協議した結果、「教師の立場から見過すことはできない。学生を見守り、事態の収拾を図るため、全員国会南通用門へ向い行けるところまで行こう。」との案が出され、討論の末この案が支持された。

そこで同日午後九時頃大研研は衆議院第一議員会館前を出発し、首相官邸前十字路を左折して午後九時三〇分頃国会南通用門手前の衆議院車庫前路上に到着した。そして、宣伝車を前にして同車庫側から国会側へ法政大学、明治大学、東京教育大学の順にそれぞれ六列計一八列の縦隊でその各大学関係の教職員が並び、法政大学関係者の後方には東京都私学教職員組合に未加盟の学校、研究所等の人々が、明治大学関係者の後方には同組合加盟の各学校関係者が、そして教育大学関係者の後方には官公立学校の関係者及び大学院生が並んだ。

大研研は同所に到着すると間もなくして、負傷者の状況調査とその救護措置を促進するため並びに又、現に国会南通用門内では前記の如く警官隊と学生集団が対峙の姿勢をとつており、何時衝突が起るやも知れない状況であるところから、衝突事故を未然に防止するため、交渉団を国会内に送ることとなり(その頃警視庁へ派遣した抗議団復帰)、(3)山口啓二、(10)清水義汎、津田秀夫(東京教育大学助教授、指揮班)等三三名を国会内に送つた。

すでに降り出していた雨は勢いを増し、悪い条件の中で夕食も十分にとらず、各大学、研究所ごとに組合旗、プラカード、大小の提灯等を持ち、交渉の結果を待つていた。

ところが、右の交渉団が国会内に入るのと前後して、国会南通用門では不幸にも前記の如く午後一〇時過頃行われたいわゆる第二次実力行使に関連して又々多数の負傷者が出る事態が発生してしまつたうえ、交渉団は国会内に入つたものの警備警察側との交渉ができず、又負傷者の調査さえ意の如くならないままに時は徒過した。そこで、大研研としては国会正門前に集結して気勢をあげている学生集団を説得することを考え、(3)山口啓二、(10)清水義汎等交渉団の一部と、衆議院車庫前において待機していた本団の中から五十嵐顕、(38)石崎可秀等三、四名が前後してそれぞれ国会正門前に赴いたが、遂に学生集団を統制できる代表者と出合えなかつたため、この説得の試みも結局徒労に帰した。

同日午後一一時頃議長団及び指揮班は、時刻が一一時にもなるのに交渉団の交渉が進展せずいつ終るか見込みがたたないこと、宣伝車の借用時間が午後一二時までであるためそれ以降における参加者の掌握、統制がしにくくなること、参加者は長時間に亘る行動で疲れも出てきているうえ雨にも打たれ健康の保持が懸念されること、参加者の翌日以降の活動にそなえることも必要であること等の理由から解散の提案をしたが、反対する者があつて、結局大研研としては、支障のない者が居残り事態を見守ることとなり、翌一六日午前〇時頃までに多数の参加者が帰り、なお残留していた者は約三〇〇名位であつた。その約三〇〇名位の残留者中には、大研研を表示する襷や各所属団体を表示する腕章を着用した者が多く、又所属の学校団体等を表示する旗、提灯を掲げる者もいた。

この徹夜しても事態を見守る態勢をとつた参加者は、各学校、研究所ごとに一応纒まつてはいたが、国会南通用門に向つて先頭右側の車庫沿いには法政大学関係の教職員、その左側には明治大学関係の教職員、その又左側には東京大学原子核研究所の教職員、続いてその後方には同大学の教職員、中程には早稲田大学関係の教職員と民間研究所の人々、そして後尾には大学院生という位置でそれぞれ列を崩して滞留し、或る者は坐り或る者は立つていた。

そして中にはプラカードなどを燃して焚火をする者も現われ、又一六日午前一時前後頃になると、(45)早川正賢が大学院生二名と共に国会正門前近くまで車輛の炎上している模様を見に行つたのをはじめとして、(18)凉野元、(42)藤原隆代、(23)宮本尚彦、(33)土生長穂、(52)立花毅、(54)永田貞雄、(56)小沢芳朗、、(57)国藤勇次等相当数の人々が衆議院車庫前を離れて国会正門方面或は国会南通用門辺りまで行き、車輛の炎上している模様とか国会正門前の状況とかを見て戻つてくるなど統制が乱れつつあつた。

(二) なお、

(イ) (4)清水徹は、日比谷公園における大研研の集会に参加後、警視庁前まで行進に加わつていたが、所用のため帰宅した。ところが、国会において死傷者が出たとのラジオニユースを聞き、右集会に参加した際行動を共にしていた東京大学のフランス文学専攻大学院生の安否を気遣い、又国会周囲の状況も見定めたく思い、一六日午前一時頃妻(美智子)と共に国会南通用門前地下鉄第一入口辺りまできた。そして、衆議院車庫前に滞留していた大研研のもとに行き、気遣つた大学院生が無事であることを確かめた後、妻と同道して国会正門前の状況を見るため国会正門方向へ行つていたものであり、

(ロ) (65)今田太郎馬は、大研研の一員としてその行動に加わつていたわけではないが、一六日午前一時過頃やはり衆議院車庫前路上において、同所に滞留していた大研研の行動を見守つていたものである。

(三) 大研研については、第五機動隊の情報受信係員(16)加藤仁は、無線車からの「午前〇時五五分現在、教授団三〇〇名位、地下鉄入口附近にいる。」との情報を受信していたのであるが、警備の重点が国会正門前の学生を主とした群衆を対象としていたために、右情報を所属指揮官である末松同機動隊長まで報告しなかつたため、同機動隊長は、その際にその情報を知らなかつたばかりでなく、いわゆる第三次実力行使による排除活動を開始するに当つても、大研研が衆議院車庫前附近に滞留している事実を知らなかつた。

三、いわゆる第三次実力行使にあたつての第五機動隊の行動概況

(イ)各第五機動隊員第一回調書(各受命)、(中略)等を綜合すると、次の(一)、(二)の事実が認められる。

(一) 部隊行動開始の経緯

第一方面警備本部長藤沢三郎が第五機動隊長に対し国会正門前の群衆を排除する命令を下したのは六月一六日午前一時一〇分頃国会正門内側に駐車中の指揮官車内(そこに第一方面警備本部がおかれていた。)

においてであつたが、その際、同機動隊長(1)末松実雄は偶々同指揮官車にいなかつた。しかし、右下命があつた直後末松第五機動隊長は、第一方面警備本部長の補佐・第一方面本部次長山本明夫から同指揮官車附近で「催涙ガス使用と同時に部隊が出て排除する。第五機動隊は国会正門前、恩給局側のデモ隊を人事院方向へ押せ。」という命令を伝達されたので、出動にそなえ、直ちに待機している部隊に戻つた。

しかるに、末松第五機動隊長は、待機中の同機動隊員に対し、排除する対象及びその排除方向を明示することなく、単に「催涙ガスが投てきされた後構外に出てデモ隊の排除をせよ。」と命令したのみで、部隊と共に出動する時期を待つていた。そして、前記麹町警察署長名により催涙ガス投てきの警告が放送され、続いて催涙ガスが投てきされるや、末松第五機動隊長は、「五機前へ」との前進命令を発し、まず同機動隊を国会正門南脇(衆議院側)土手の手前まで前進させ、ついで同所において携帯用電気メガフオンを使用して土手下の国会正門警察官詰所前から恩給局側にいた学生等約五〇〇名位の群衆に対し「事態は騒擾と認める。関係のない方は帰つて下さい。」と警告し、同機動隊に対しては、「事態は騒擾と認める。抵抗する者は逮捕せよ。逃げる者は追うな。」との指示を与え、「部隊前へ。」と再び前進命令を発した。こうして第五機動隊は構外へ進出をはじめたが、その際、一般の同機動隊員はもとより、部下を引率、指揮する中隊長らでさえ、排除すべき対象が国会正門前の群衆に限るのか、それとも国会周囲において当面した集団はすべて国会周囲から排除すべきものなのか、又排除して行く方向もわからないままであつた。

(二) 部隊行動

(1) 恩給局側附近、衆議院第二会館側附近等における行動

末松第五機動隊長の命令により、同機動隊員は、車輛を警護する操車係とか無線係等の一部二八名を除き、第二中隊、第四中隊、第三中隊、第一中隊の順序で国会正門南脇土手より道路上に進出を開始し、又本部隊員も右の各中隊に混じつて道路上に進出を開始したのである。しかし、進出地点の土手上には柵があり、内側には植込みがあり、かつ道路に面した斜面は、降雨で滑りやすくなつていたため、各中隊ごとに別れて進出を開始したものの、滑り落ちる者、植込みに着衣をとられる者、転倒する者、出遅れる者等があり、又恩給局側にいた約五〇〇名の群衆の中から飛来する石、プラカード等に進行を妨げられる者があつたりなどして、第五機動隊の足並みは進出の当初からかなり乱れていた。

同機動隊第二中隊長(153)井上善正が指揮する同中隊員を主とした先頭部隊は、道路上に降りるや直ちに恩給局側の群集に接近し、一部の者においては個人の判断で警棒も使用し、排除活動を開始した。一方、末松同機動隊長は、土手の上から携帯用電気メガフオンを利用して「ガスを射て、前へ射て、もつと前へ射て。」と叫び、群衆の退散を促す警告を繰り返した。すると、恩給局側の群衆は国会南通用門、首相官邸方向へ退散し、先頭部隊はこれを追尾して前進しはじめた。末松同機動隊長は、このような形勢になつた以上、警備本部が命令しているように人事院方向に排除することは無理であり、国会南通用門方向に排除する外ないと判断し、先頭部隊の孤立化を防ぐため、同機動隊第四中隊長(374)森田高義が指揮する同中隊員を主とした部隊に対しても退散する群衆の追尾を命じ、自らもその部隊の後方に加わり、国会南通用門方向へと進んだ。又同機動隊第三中隊長(253)大栗元市の指揮する同中隊員を主とした部隊、同機動隊第一中隊長(56)松田善次郎の指揮する同中隊員を主とした部隊も順次先行部隊を追つて国会南通用門方向へと前進した。

なお、退散した学生等のうちには、衆議院第二会館北門の門扉を乗り越え同会館構内に侵入しようとする者や同門下にひそむ者が相当いたので、一部の隊員がこれを路上に引き出して排除を行つた。

(2) 地下鉄第一入口附近、国会南通用門前附近等における行動

先頭部隊が国会南通用門前三叉路近くまで前進した時、前方地下鉄第一入口附近には国会正門前から逃げてきた学生等とみられる約五〇名の集団がいて、石、棒等を投げつけてきたので、数名の同機動隊員が警棒でこれを払うなどして、その排除をはじめた。その時末松同機動隊長は第四中隊員を主とした第二次部隊の後尾にいたが、前方地下鉄第一入口附近だけでなく、国会南通用門前、更には衆議院車庫沿いに多数の群衆がいるのを発見したが、その中には前記大研研も含まれていたのである。しかし、末松機動隊長は、その多数の群衆(同人は五・六〇〇名とみた。)が、すべて国会正門前から逃げて行つた学生を主とした群衆で、しかもそれを追う警官隊に対し反撃の態勢をとつているものと判断し、先頭に立つている僅かな警官隊がその群衆に当ることは危険であるので部隊を整える必要があると考え、「止まれ、止まれ。」と叫けび、各中隊の停止を命じた。この命令は、すでに排除活動を開始している者もあり、直ちに徹底はしなかつたが、ともかく右命令に前後して第二中隊長は右三叉路手前衆議院第二会館横角辺りに、第四中隊長はその右横の道路中央部に、第三中隊長はそのやや斜め(国会側)後方に、第一中隊長は更にその斜め(国会側)後方に、それぞれ各所属中隊を一旦停止させて各中隊の隊形を整えたので、すでに排除活動を開始していた者らも含めて、大方の隊員は各所属中隊ごとに集結した。

しかし、職務上機動隊内を遊動している本部付隊員を除いても、各中隊において、小隊長、分隊長らが所属隊員を確かめたわけではなく、せいぜい各中隊長の下に大凡中隊相当の隊員が集つているかどうかを見定めた程度であつたため、所属の中隊でない他の中隊内に紛れていた隊員がなお相当いたと推認されるような状態であつた。

このように部隊が停滞している間にも、地下鉄第一入口附近からの投石等は続き、第二中隊の標識灯が破壊され、又投石により同機動隊員中に負傷する者も出た。そこで逸早く中隊として大体纒まつた第四中隊(前述の状況からして同中隊員以外の者が入つていないという意味ではない。以下各中隊についても同じ。)は、森田同中隊長の指揮で前進を開始し、国会南通用門前から首相官邸方向に向つて道路中央部を前進した。これにつられるように、衆議院第二会館沿いで纒まりつつあつた第二中隊も前進を開始し、そして後続の第三中隊、第一中隊も順次前進して、地下鉄第一入口附近から国会南通用門前及び衆議院車庫沿いに拡がつている群集を首相官邸方向へと後退させ、追尾した。なお、地下鉄第一入口附近にいた集団は二手に分かれ、一部は霞ヶ関方向に後退したので、第二中隊、第四中隊の一部隊員がこれを追つて右三叉路を左折した外、後続の第三中隊、第一中隊の中でも右三叉路を左折して追尾した者もあり、その人員は略六〇余名に及んだが、そのうち大半の者は途中で引き返し、衆議院車庫前を経て首相官邸、特許庁方向に向つた本隊を追い進んだ。

(3) 衆議院車庫前附近、首相官邸前十字路附近、特許庁附近等における行動

第五機動隊は、衆議院車庫沿いを第二中隊が、その右側道路中央部を第二中隊よりやや先行して第四中隊が、そしてこれらの部隊よりやや後方右側を第三中隊が、これより更にやや後方に第一中隊が位置する形をとつて、前進を続けた。そして、旧議員面会所に面した衆議院車庫出入口近くにさしかかつた時、同所には組合旗等を立て、二箇所位で焚火をし、先頭左翼(衆議院車庫側)では、旗竿を横にしてスクラムを組んでいる集団がいたが、これが前記大研研であつた。

同機動隊第四中隊は右集団の手前で一旦停止したところ、右集団から襷をかけた者二人が出てきて、その一人が「指揮者はいないか。」といいながら森田第四中隊長に近ずき、「貴方が指揮者ですか。」等と呼びかけ、話し合いをしようとしてきた【右の二人というのは、畠山英高、(3)山口啓二の各検察官調書、人権調査書等によると、この両名であつて、話し合いをしようとした者は畠山英高ではないかと窺われるふしもあるが、畠山英高の検察官調書には四五、六才のチヨビ髭をたて、手には指揮棒を持つていた警察官に対し話しかけたとの供述があり、そうであるならば、(347)森田高義の容貌と一致せず、断定することは相当でない。】。森田第四中隊長は、ここで話し合つても事態の解決が長引くのみで無意味であるばかりか、当時の国会周囲における状況からして、相手側の集団等から何時投石を受けるかわからない危険さえあると判断して、右の話合いに応じないで「デモ隊を解散させなさい。」と告げ、指揮下の部隊に対し「進め。」の命令を下した。

その間に、左翼(衆議院車庫側)においては、すでに集団の先頭と数名の機動隊員との間に竹竿の押合いがはじまり、森田第四中隊長の右命令により、道路中央部の第四中隊が前進しはじめた頃には、集団側のプラカードと機動隊側の警棒が互に触れ合う衝突が起つていた。そして衆議院車庫沿いを進んできた第二中隊も第四中隊と並び前進しつつあつた。

第二中隊と第四中隊が略並行して前進したところ、右集団は一部の者を除き、殆んどが抵抗しないで首相官邸方向に後退したので、同機動隊は依然として右の両中隊を先頭にして、第三中隊、第一中隊が順次続く形で右集団を追尾圧出し、首相官邸前十字路に進出した。そして少なくとも一部の抵抗した者とか、衆議院車庫の塀を乗り越え同車庫内へ侵入しようとした者に対しては、これに当面した隊員が実力でその排除或いは制止にあたつた。

先頭部隊が首相官邸前十字路に進出した時、第三中隊がこれに追いつき、先頭部隊と肩を並べてその右側に出たので、同機動隊は同地点から第四中隊を真中にして、左右に第二中隊、第三中隊が略並び、その後方に第一中隊が続く形となつた。

そして、その頃同機動隊副隊長(2)永井俊男がようやく先頭に立ち、部隊の指揮、先導をはじめたので、同機動隊は、右(2)永井俊男の指揮の下、右の隊形で同十字路を左折し、後退する集団を更に首相官邸前十字路より特許庁方向に追尾圧出し、同地点で解散させた。

この間末松同機動隊長は、終始略同機動隊の中程に位置していて、依然として大研研が国会正門前から逃げて行つた学生を主とした群衆とは異る集団であることに気ずかないまま、携帯用電気メガフオンを使用し「早く解散しなさい。」「抵抗する者は逮捕しろ。」と繰り返し警告等を行いつつ坂下門手前辺りまで前進し、同地点において「止まれ。」の命令を発したのであつた。

しかし、右の排除の際、右集団中には逃げ遅れて道路の左右に残された者、殊に首相官邸前衆議院車庫側に駐車していた数台の自動車と同車庫の塀との間に逃げこんで残された者が相当あり、その残された者の排除に当るため、部隊から離脱した隊員が少なくなかつた。

四、いわゆる第三次実力行使と第五機動隊内及び大研研内における暴行傷害の被害事実の発生

(一)  第五機動隊側の被害について

(1)末松実雄は、当裁判所及び検察官の各取調の際或いは同人作成の安保改定阻止第一八次、六・一五統一行動警備についての報告書(送付証拠物一編綴)において、第五機動隊は構外へ進出を開始してから先頭部隊が特許庁横辺りで停止するまでの間に、国会南通用門手前の三叉路附近その他の各所において投石、投棒或いは体当り等をされ、若干の負傷者も出しているが、大研研の大部分が滞留移動した範囲内であるといわれる衆議院車庫前、首相官邸前においても、このような激しい抵抗があつた旨の供述又は報告をしている。

そして、(イ)警視庁公安部公安第一課警部佐藤三郎作成の負傷状況調査報告書、(中略)によれば、いわゆる第三次実力行使に当り第五機動隊員中、右(22)伊藤(旧姓関)一男ら一〇名が投石、投棒、棒切れによる殴打等を受け、(22)伊藤(旧姓関)一男は右肘、右中指打撲加療一週間、(146)原田秀男は右手根部、背部打撲症加療一週間、(149)横田和男は右足首打撲症加療二週間、(420)新徳秀雄は左足首打撲兼内出血全治一週間、(21)印南利男は左上膊打撲(軽傷)、(153)井上善正は両足脛打撲全治一週間、(154)大塚秋雄は胸部打撲全治一週間、(185)大津勇は左下腿打撲症(軽傷)、(187)松原正は鼻根部打撲傷全治一〇日、(213)本田孝昭は左下腹部打撲症全治四日の傷をそれぞれ負つたことが認められる。又(154)大塚秋雄、(中略)の各検察官調書、(中略)によれば、いわゆる第三次実力行使に当り第五機動隊員中、(154)大塚秋雄は竹竿、プラカードで右膝下、左肩部、左手を殴打され、(155)金田大造、(255)日野淳一の両名はそれぞれ所持していた標識灯に投石されてこれを破壊され、(162)広岡勲は「てめえらこそ帰れ。」といわれながら胸倉を掴まれ、(175)甲斐義隆は旗竿で鉄帽を殴打され、(283)小野田徳弥は胸部に投石され、(339)風川幸夫は頭部、右肩部にプラカードを投げつけられ、(166)得丸正行、(290)松上晴次、(412)板倉健吉、(440)田川重隆の四名はそれぞれ鉄帽に投石されたことが認められる。

しかし前掲各証拠によれば、右のとおり負傷した一〇名、暴行を受けた一一名の各第五機動隊員のうち、同機動隊が大研研に遭遇した国会南通用門先の衆議院車庫前から特許庁に至る区間において受傷した者は、「南通用門をすぎて衆議院車庫前にかかると、デモ隊が四、五人ずつあちこちにかたまり警官隊から後退させられていた。私はこれで先頭に追いついたと思い、中に入つて行くと、二〇才位の白ワイシヤツを着た学生らしい男が三米位の竹竿で私の左膝を殴つた。」旨供述している(185)大津勇及び「首相官邸前から特許庁方向に一〇〇米位進んだ地点辺りにおいて、前方の全学連の中から投げられた石が左足首に当つた。」旨供述している(420)新徳秀雄の両名のみであり、同区間において暴行を受けた者は衆議院車庫前から首相官邸前十字路までの間に受けた(162)広岡勲、(255)日野淳一、(412)板倉健吉及び首相官邸前から特許庁までの間に受けた(283)小野田徳弥、(290)松上晴次、(339)風川幸夫、(440)田川重隆の七名であり、その余の負傷者八名及び暴行を受けた四名の同機動隊員は、いずれも国会南通用門先の衆議院車庫前において大研研と遭遇するより前に学生集団等大研研以外の群衆の行為により右各被害を受けたものと認められる。

(二)  大研研側の被害について

〔1〕 大研研側の主張

大研研側は、いわゆる第三次実力行使に当り、本件請求の被疑事実のとおり、約四〇〇名の大研研の略全員が第五機動隊員から殴る蹴る等の暴行を受けて多数の負傷者を出した旨主張し、そのうち主要な負傷者として七六名の氏名をあげその負傷の部位程度を指摘した。

〔2〕 大研研側の被害中に第五機動隊員の行為(警棒その他これに類する持物又は手による殴打或いは足蹴足払い等)により生じたものがあるか

(1) 第五機動隊員各自の自己の行動に関する供述

第五機動隊員各自の調書(受命)及び検察官調書、答申書等によると、同機動隊員は自己の行動に関し、次のとおり供述している。

(イ) 警棒使用に関する各自の供述

いわゆる第三次実力行使の際、第五機動隊員のうちで、警棒を抜いたと供述した者は、検察官取調の段階までには、第二中隊の(154)大塚秋雄、(183)山崎重雄、(218)田村重雄、の各小隊長、(174)石丸金弥、(184)川崎聰、(195)片渕種彦、(207)新井竹雄の各分隊長、(167)中島昭二、(170)村田昭五、(180)菊原成三、(196)安川徹、(200)大野克二、(204)高島圭司、(216)小泉孝一、(222)小野千秋、(224)上村秀雄、(235)金森三郎、(241)西田久雄、(246)早野邦夫の各隊員、第四中隊の(404)森山淳、(410)畠山昇、(437)谷仲邦治、(440)田川重隆、の各隊員、第三中隊の(259)石川俊雄、(268)大沼武、(300)佐藤次郎、(305)大平実の各隊員、第一中隊員(140)木内俊夫の以上合計二八名であつたが、当裁判所の取調(受命)の段階において更に第四中隊の(364)飯村弥惣次、(386)嶋健二、(400)千葉勇三の各隊員、第一中隊の(82)勝股良、(113)松若光夫の各隊員が加えられ合計三三名となつた。なお、その外、第一中隊員(65)池田一次が構外に出る際着装していた帯革を失つたために、已むをえず警棒を手に握つていたと供述(受命)する。そして自己が警棒を抜いたと供述する右三三名の警察官のうち、

〈1〉 (154)大塚秋雄が「構外に出て、恩給局側のデモ隊の排除行為を続けていた時、デモ隊から竹竿、プラカードで膝や肩を殴られたので、身の危険を感じて警棒を抜き、更に殴りかかつてくる竹竿、プラカードを叩き落した。その際相手の腰や腕辺りにも警棒が当つたこともあつたが、当つた相手は二名位であつた。」旨、

〈2〉 (174)石丸金弥が「構外に出て、恩給局側のデモ隊に接近した時、先頭二列目位にいた男が赤旗の竹竿を第一小隊長(154)大塚秋雄の方に突き出してきたので、私は手でやつていてはこちらの身が危険だと思い、警棒を抜き竹竿を叩いた。それから間もなくのところ南通用門よりも手前で男がプラカードを振りあげ私に殴りかかつてきたのでそれを警棒ではね除けたが、その際相手の男の腕に警棒が当り手応えがあつた。」旨、

〈3〉 (200)大野克二が、「南通用門手前で横転していた借上車の附近から、若い男が一人出てきて、小走りで南通用門方向に行くのを発見したが、その男は服や靴が相当泥まみれになつていたので、国会正門前で暴行した者に違いないと思い逮捕しようとした。その男は逃げようとして暴れるので、手錠をかけようと思い手錠を取り出そうとしたが出なかつた。そこで警棒を使つて逃走を防止するより外ないと判断し、警棒を抜き、両手で警棒の端を握り相手の腰を抱くようにして逮捕した。」旨、

〈4〉 (170)村田昭五が「恩給局側にいたデモ隊を追つて南通用門方向に進んでいく時、デモ隊から石は飛んでくるし、辺りは暗く険悪であつたので、身の危険を感じて警棒を抜いた。南通用門前三叉路にさしかかると、第二議員会館の裏の角辺りに一〇〇名位のデモ隊がいて、何処の中隊かわからない隊員がこれを押していた。私も左側から加わつて押しはじめると、デモ隊の一人がプラカードの柄で私を突いてきたので警棒でそれを振り払つた。それからそのデモ隊を地下鉄入口附近まで押して行つたところ、霞ヶ関方向と首相官邸方向に退散したが、なお帰ろうとしないで残つている者がいたため、私は警棒を横に構え首相官邸の方にそのデモ隊を押した。首相官邸前十字路までくると、もうデモ隊を押す必要がなかつたのでその場で警棒を収めた。」旨、

〈5〉 (246)早野邦夫が「南通用門前三叉路を左折した先から引返して、国会正門へ戻るべく北門近くまできたところ、同所においてデモ隊七、八名と警察官四、五名が揉み合つていた。デモ隊の方が優勢であつて、警察官を突き飛ばしたり、手で殴つたりしていた。私はそのうちで二、三人のデモ隊に殴られ突き飛ばされている一人の警察官を救助しようとして、同警察官に近ずきデモ隊員を制圧するため警棒を抜いた。ところがその抜くはずみに警棒は警察官の腕に当つてしまつた。私が同警察官にすみませんという趣旨のことをいつている間にデモ隊の方は逃げてしまつた。」旨

それぞれ供述している以外の二八名の者は、いずれも自分は警棒は抜いただけで使用しなかつたと供述する。しかもその警棒を抜いたという第五機動隊員各自の供述に徴すると、

〈イ〉 その大方の者が構外に出る時或いは構外に出るや直ちに警棒を抜いたけれども、国会南通用門手前の三叉路へ行くまでの間に収めてしまつたことになり、

〈ロ〉 大研研が滞留していた国会南通用門先の衆議院車庫前附近において、警棒を抜いていたことがある者は僅かに五、六名であり、そのうちこれを使用した者は前記の(170)村田昭五だけであつたことになり、

〈ハ〉 首相官邸前から総理府前にかけては、ただの一人も警棒を手にしていた警察官はいなかつたことになる。

(ロ) 殴打、足払い等に関する各自の供述

第五機動隊員のうちでいわゆる第三次実力行使の際に殴打、足払い等をしたと供述する者は、僅かに(162)広岡勲ら四名である。即ち、

〈1〉 広岡勲が「衆議院車庫前を進んで行き、首相官邸前十字路にさしかかる少し手前辺りまできた時、逃げ遅れた四、五名のデモ隊がいたので、私は、まごまごしないで家に帰れ、怪我するぞというと、その中の二〇才位で格子縞のシヤツに黒ズボン姿の男が、てめえらこそ帰れといつて私の胸倉を掴んできたので、その右手首を掴んで腕を逆に捻つて突き放した。」旨、

〈2〉 (226)菊地厚之が「首相官邸前十字路を左折する車庫側の曲り角で、四〇名位のデモ隊と揉合いをした。私も隊員の後から押していたところ、年令二二、三才、身長一六〇糎位の学生風(白ワイシヤツ、黒ズボン、油気のない長髪)の男が右手で私の胸を突いてきたので、私はその男の右手を掴んで引張り出して投げ、道路上に転ばした。」旨、

〈3〉 (297)後藤郁次郎が「私は総理府門の先辺りで、道路右側(首相官邸側)の前線に出た。私の前にいたレインコート、白ズツク靴姿の学生風の男がプラカードで私の鉄兜を殴つてきた。私はこれを制止するため、その男の右手を掴んで足払いをかけたところ、雨で路面が濡れていたため私も一緒に倒れた。」旨、

〈4〉 (437)谷仲邦治が「私が北門前へ行くと、検挙だといつている声が聞えたので、北門の方を見たところ、右側の方をデモ隊が逃げて行くのが見えた。右側には二、三本の木が植つていたと思うが、そこのところの塀をよじ登ろうとしている十数名の学生がいたので、そのうちの一人に対し背後から腰部を両手で抱きかかえるようにして、検挙するといつて引き降ろした。その男は、この犬何するんだといつて殴りかかつてきたので、私はそれを振り払うつもりで右手で相手の左頬を一回殴つた。それからもう一回検挙するぞといつたところ、相手の男はすみませんとか許して下さいという趣旨のことをいうので、私は早く帰れといつて道路上に押し出した。」旨

それぞれ供述しているにすぎない。

(ハ) 特に大研研が負傷者を出した場所における行動に関する各自の供述

〈1〉 衆議院第二会館北門関係

同所附近においては後に各説において記述するとおり、(4)清水徹、(45)早川正賢の両名が負傷したのであるが、第五機動隊員各自の供述としては、(437)谷仲邦治が前記のように学生の頬を素手で一回殴つたと供述している外、(170)村田昭五の「北門に近ずくと、そこには二〇才前の男が自転車を曳いていたので、職務質問するとその男はラジオを聞いて見にきたと答えた。私は用はないから早く帰れといつて、その男の自転車の荷台を押した。」旨、(184)川崎聰の「北門の門扉を乗り越え中に入ろうとしている七、八名の学生らしい者がいたので、近ずき、そのうちの一人の体を捕えこれを制止しようとしたが、その男はそのまま門の中に入つてしまつた。私の方にきた一、二名の隊員がすぐ南通用門の方に走つて行つたので、私も学生をそのままにして南通用門の方へ走つていつた。」旨、(237)大里成道の「私が北門の辺りまできた時板塀を乗り越え中に侵入しようとする学生風の男を発見し、その男の体(肩か足)に手をかけて引き降ろし、道路上に出した。」旨、(282)仙頭泰任の「恩給局の裏門(註・衆議院第二会館北門を指す。)の少し引き込んだ所にデモ隊が五、六人いた。背広を着た一般労組風の男が多く学生らしい男も一人、二人いたが女性はいなかつた。そのデモ隊に対し一〇人位の警察官が規制していた。私もそこにいる二人位の手を持つて道路上につれ出した。」旨及び(290)松上晴次の「北門の門扉に登れなくてそこに生えていた木によじ登ろうとしている四人位の学生がいたので、そのうちの一人の男の腕を引張つて木から引き離し、道路上へ押し出した。」旨の各供述があるにすぎない。

〈2〉 国会南通用門先衆議院車庫前附近関係

同所附近においては、後に各説において記述するとおり、大研研側において多数の負傷者が出ているのであるが、第五機動隊員各自の供述としては、第二中隊の(163)千葉英喜、(168)柏木大作、(173)高橋貞男、(188)菅野守雄、(192)辛川賢、(212)高見時法、(215)鈴木利幸、(220)村里忠士、(223)伊東龍鳳、(224)上村秀雄、(239)吉永昭己、第三中隊の(289)谷古宇(旧姓信田)文男、第四中隊の(375)伊藤雅樹、(427)岩渕都記男、(438)樋口四郎らの路上の集団或いは残されて三々五々路上にたたずんでいる者らを素手で押したことがあつた旨の各供述、又副隊長(2)永井俊男、第二中隊の(169)菊地正司、(224)上村秀雄、(225)大森奎典、第四中隊の(375)伊藤雅樹らの衆議院車庫の塀を乗り越え中に入ろうとする者の腰、足等を掴みこれを制止したとか、抵抗する者を抱えて押したとか、或いは規制方向に逆行しようとする者の腕を掴み引き戻したとかの各供述及び第二中隊の(163)千葉英喜、第三中隊の(295)吉国鉄次、(346)菅野栄資、第四中隊の(356)板垣喜義、(376)熱海勇らの路上に屈みこんでいた男を路端につれて行つたとか、警官隊内に巻きこまれてきた男を隊外につれ出したとか、或いは集団側が横に構えていた竿を掴んで押したとかの各供述があるにすぎない。

〈3〉 首相官邸前の衆議院車庫側附近関係

同所附近においても、後に各説において記述するとおり、大研研側において多数の負傷者が出ているのであるが、第五機動隊員各自の供述としては、第一中隊の(60)柳田礼爾、第二中隊の(163)千葉英喜、(164)石村虎平、(168)柏木大作、(169)菊地正司、(192)辛川賢、(214)佐々木繁俊、(215)鈴木利幸、(219)恒松義春、(225)大森奎典、(243)大日方安雄、(244)瀬川秋雄、第三中隊の、(256)佐藤武、(257)尾崎二民、(262)川上孝二、(263)無津呂実、(289)谷古宇(旧姓信田)文男、(319)佐藤康徳、第四中隊の(361)高崎嘉博、(363)束野行夫、(386)嶋健二、(417)池園繁隆、(418)栗山義明らの自動車と塀との間に行き詰つた人々やその周囲で停滞している人々を押したとか或いは引き出したとかいう趣旨の供述、第二中隊の(175)甲斐義隆、第三中隊の(320)松尾義行らの抵抗してきた者の竿等を掴んだ旨の供述、第四中隊の(375)伊藤雅樹、(408)佐々木建二らの塀を乗り越えようとした者の足を押さえたとか屈み込んでいた人に躓いたとかの各供述があるにすぎない。

〈4〉 総理府前附近関係

同所附近においても、後に各説において記述するとおり、大研研側において若干の負傷者が出ているのであるが、第五機動隊員各自の供述としては、第二中隊の(181)岩根忠雄、(226)菊地厚之、第三中隊の(287)菅原常夫、(293)高橋俊夫、(306)阿久津晃、(340)山口俊毅、(344)加美山篤らの逃げ遅れている人々を押して退散させた旨の供述が散見されるにすぎない。

(ニ) 以上各自の供述を綜合した結果

第五機動隊と大研研とが遭遇した際に同機動隊員が大研研に前記〔1〕の暴行傷害の被害を与えたか否かについての同隊員各自の行動に関する供述を綜合すると、次のとおりになる。

〈1〉 警棒その他これに類する持物による殴打等について

その際相手の身体めがけて警棒その他これに類する持物をもつて殴打した第五機動隊員は一人もいなかつたというのである。ただ、振つた警棒が相手の身体に当つたという同機動隊員が二名いる。それは、(154)大塚秋雄が恩給局側でデモ隊排除の際相手から竹竿、プラカードで攻撃を受け身を防ぐためその竹竿、プラカードを叩き落した時、二人位の相手の腰や腕辺に警棒が当つたことがあつたというのと、(174)石丸金弥が国会南通用門よりも手前のところで男がプラカードを振りあげ殴りかかつてきたのでそれを警棒ではね除けた際相手の腕に警棒が当つたというのとである。(174)石丸金弥はその他の機会にも警棒を使用したといい、又その外警棒を使用したという者には(200)大野克二、(170)村田昭五、(246)早野邦夫の三名があるだけであるが、右石丸、大野、村田、早野の警棒使用の場所方法(石丸については他の機会の分)は、恩給局側附近又は国会南通用門手前附近において警棒をもつて相手の突いてきた竹竿やプラカードの柄を叩き又は振り払い或いは両手で警棒の端を握つて相手の腰を抱くようにして逮捕し、或いは抜くはずみに警察官の腕に当つたにすぎないとか、国会南通用門附近から首相官邸前十字路まで警棒を横に構えて相手を押して規制したとかいうに止どまる。以上いずれも正当な職務の範囲内の行為又は正当防衛であると主張するのである。なお、右のとおりの事情であるから、大研研の大部分が滞留していてその後移動し多数の被害者の出た国会南通用門先の衆議院車庫前から特許庁附近までの範囲において警棒その他これに類する持物を相手の身体に触れさせた第五機動隊員がいたか否かの点については、警棒をもつて押した同隊員が一人いただけで、警棒その他これに類する持物をもつて殴打した同隊員は一人もいなかつたということになる。

因に、その際第五機動隊員中警棒を抜いただけで使用しなかつたという者が二八名いるが、それも国会南通用門手前で大方の者が納めてしまい、国会南通用門先衆議院車庫前附近で抜いていた者は、四、五名しかおらず、首相官邸前から総理府前にかけて抜いていた者は一人もいなかつたということになるのである。

〈2〉 素手による殴打又は足蹴足払い等

その際第五機動隊員中相手の頬を手で殴打したという者が一名、相手の腕を逆に捻り突き放したという者が一名、相手を道路上に投げ転ばしたという者が一名、相手に足払いをかけて倒したという者が一名いる外に、相手の身体を手で押すとか引くとかいう程度の行為で規制したという者が約五〇名いる。以上いずれの同機動隊員の行為についても、正当な職務の範囲内の行為又は正当防衛であると主張し、又それにより傷害を負わせたとはなんぴともいつていない。

(2) 目撃者の供述

しかし、目撃者中には、右(1)の(イ)ないし(ニ)記載のとおりの第五機動隊員各自の自己の行動に関する供述を綜合したものとは相容れない供述をする者が多い。即ち、

(イ) 第五機動隊員中当該行為者以外の者による目撃供述

〈1〉 (414)吉村天長は当裁判所の取調(受命)において、答申書(35・7・3付)に記載してあることなど忘れており、記憶を喚起することもできないけれども、同答申書は当時記憶の新しいうちに書いたものであるから、同答申書の内容は間違いないものと思う旨供述したのであるが、同答申書には、「恩給局のコンクリート塀に付置の平常使用されていない扉があり(註・衆議院第二会館北門を指す。)その両側及び塀の上にデモ隊が一〇名位いた。そして、それを規制している隊員三名位が犬、人殺しなどと罵倒され、プラカードの柄等で抵抗しているのを、警棒でよけていた。その時一人のデモ隊を道路上につれ出して警棒を使用しようとしている隊員を見たので、飛びつき、やめろと怒鳴つたところ、私の注意を聞いてくれた。」旨の記載がある。

〈2〉 第五機動隊が国会南通用門前及び同通用門先衆議院車庫前附近を前進した時の隊形は、前記三の(二)の(2)、(3)の如く、衆議院車庫沿いに第二中隊、その右側道路中央部に第四中隊が位置していたものと認められるのであるが、第二中隊の(154)大塚秋雄は「南通用門手前の三叉路で投石を受け、屈みこんでいたところ、私達の右側を他の中隊らしい警官の一団が警棒を抜いたまま凄い勢で通用門の方に向つて走つて行つた。」旨、同中隊の(180)菊原成三は「衆議院車庫前で五〇〇名位のデモ隊に当面し、部隊先頭の方が立ち止まつた。私は道路左側の三列目位にいたが右側の何中隊かわからない警官隊がデモ隊と警棒や旗竿でパチパチわたり合つているのを見た。」旨供述(各検察官調書)しており、これに対し、第四中隊の(382)高橋泰禧は「焚火を囲んだ四・五〇〇名の集団の手前で部隊は止まつた。私達が止まつた時左の方にはデモ隊と接触している警察官の姿が見られ、その警察官は警棒を抜いていた。」旨、同中隊の(376)熱海勇は「衆議院車庫前で旗竿を横に構え、スクラムを組んでいたデモ隊に対し、私はその旗竿の右端附近を掴んで押したが、その時中隊長は右前方で誰かと話をしており、左端の方では白ワイシヤツ、黒ズボンの学生が六尺棒で前にいる警察官を殴り、その警察官は警棒で防いでいた。」旨、やはり同中隊の(377)室町正夫は「焚火をしていたデモ隊と対面し、中隊長が白い襷をかけた男と話をした。そのうちに左側の車庫側で警官隊がデモ隊を押しはじめ、その中の四、五名の警察官が殴つてくるプラカードを警棒で受け止めているのが見えた。」旨各供述している(各検察官調書。)又第二中隊の(192)辛川賢の「南通用門から首相官邸前十字路に至る間をとおる時、警察官で警棒を抜いている者が相当いた。」旨の供述(検察官調書)もある。

〈3〉 又、前記(1)の(イ)において示した警棒を抜き、或いはこれを使用したと供述している者らの供述を綜合すれば、首相官邸前の衆議院車庫沿いにおいては警棒を抜いている者はいない筈であるのに、第四中隊の(380)坂本新造の「車庫の塀に沿つて二台位車が並んでおり、車と塀の間にはデモ隊がぎつしり詰まつて身動きができず悲鳴をあげていた。その車の前や後ろには二、三人の警察官が出ろ出ろといいながら警棒で指示していた。」旨、同中隊の(382)高橋泰禧の「特許庁の方へ曲つてから、左側塀際に自動車が三台位並んで止まつており、車と塀の間を逃げて行くデモ隊の後を、どの中隊かわからないが、警棒を抜いた警察官が追つて行つた。その警察官の一人に対して、私は逃げるのを追うなと制止した。」旨、同中隊第三小隊長(412)板倉健吉の「首相官邸前四つ角を左折した所には、塀際に二、三台の自動車が並んでいて、自動車と左側塀との間に逃げるデモ隊が一杯つかえたためか、自動車の手前に一二、三人のデモ隊がおり、これに対して、どこの隊の者かわからないが、二、三人の隊員が排除しようと警棒を振りあげているのを見たので、私はすぐその場所へ行き、警棒を収めろといつたところ、すぐ警棒を収めた。」旨の各供述(各検察官調書)がある。

(ロ) 大研研中当該被害者以外の者による目撃供述

〈1〉 旧議員面会所に面した衆議院車庫出入口の前附近関係

同所附近における状況を目撃した大研研の北川隆吉、吉田一、山川達也、小俣和夫、千田勝久、(3)山口啓二、(13)山崎昂一、(46)小野寺正臣、(48)芝田進午、(62)笠原長寿、(123)太田茂雄、(124)柴野睦郎、(125)湯橋俊子、(126)宮島二郎、(127)高橋昭夫の各証人調書【受命吉田、小俣、千田、(46)小野寺、(48)芝田は各第一回】によれば、同所附近においては、被害者の氏名こそわからないけれども、〈イ〉同車庫の塀に押し倒された人々で背中、肩等を警察官から警棒で叩かれた者、〈ロ〉大研研の先頭部が、鉄帽をかぶり黒い感じの服装をした警官隊に押されている際、その先頭部にいた人々の中に、警察官から警棒で打たれている者、頸部に飛びかかられた者及び引張り出されて警棒を振りあげられた者、〈ハ〉大研研右翼(衆議院車庫側)の方において警察官から長い竿で打ちかかられた者、〈ニ〉首相官邸方向に向きを変え、逃げて行く人々の中に背後から警察官に襟を掴まれた者及び警棒、竿等で肩等を殴られた者等がいたというのである。

〈2〉 地下鉄第二入口に面した衆議院車庫附近関係

同所附近における状況を目撃した大研研の田村義男、青木宗也、山崎敏光、五十嵐顕、石原康久、浅見輝男、(2)新井浩、(13)山崎昂一、(24)西村奎吾、(42)藤原隆代、(62)笠原長寿の各証人調書(命令石原は第一回)によれば、同所附近においては、首相官邸方向に逃げる大研研の人々、或いはその中で逃げ遅れた人とか転倒した人で、前同様氏名こそわからないが警察官から警棒とか竹竿のようなもので、肩部、腹部、腰部等を打たれたり突かれたりした者がかなりいたというのである。

〈3〉 首相官邸前十字路及び同十字路を左折した先の首相官邸と衆議院車庫との間附近関係

同所附近の状況を目撃した大研研の田村義男、坂田泰治、井岡伸介、青木宗也、石原康久、法橋和彦、(2)新井浩、(7)名和利也、(9)高橋信一郎、(13)山崎昂一、(17)大須賀きく、(25)水谷道雄、(40)井上泰、(42)藤原隆代、(46)小野寺正臣、(47)高井銕夫、(51)伊藤正美、(52)立花毅、(55)小鷹俊彦、(61)山本大二郎、(65)今田太郎馬、(66)服部正志、(72)山辺健太郎の各証人調書【石原、(40)井上、(46)小野寺、(47)高井、(61)山本は各第一回】によれば、同所附近においては、衆議院車庫沿いに駐車していた自動車と塀の間及びその手前の同十字路の衆議院車庫側の角に押し詰まつた人々の中に、警察官から警棒、竿或いは素手で頭部、肩部等を殴られた者又身体を蹴られたものが相当おり、その他同十字路上とか駐車中の自動車の右側(首相官邸側)及び前方等においても、逃げる途上、或いは路上に屈みこんでいる際、これを追いかけてきた警察官に警棒、棒等で殴られた者、足払いをかけられた者等がいたというのである。

〈4〉 総理府から特許庁に至る区間附近関係

同所附近の状況を目撃した大研研の田村義男、小野正雄、五十嵐顕、(21)渡部三雄、(32)野田正穂、(35)宇野啓三、(60)鈴木幸光の各証人調書【命令(32)野田、(60)鈴木は各第一回】によれば、同所附近においても逃げる人々或いは路上に屈みこんでいる人で、警察官から警棒、棒等で頭部、肩部等を殴られたり、身体を蹴られたりした者が点々といたというのである。

(ハ) 第五機動隊員、大研研以外の者による目撃供述

大研研と第五機動隊とが遭遇した際、首相官邸前十字路附近においてニユースの取材に当つていた窪田康夫、島碩弥、黒河内哲夫、高畑昭久の各証人調書(受命、窪田は第一回)によると、右証人らが、同十字路附近において少なくとも、〈1〉同十字路に入る手前の衆議院車庫沿いにおいて、逃げて行く一人の男に対し、黒い感じの服装で鉄帽をかぶり警棒を手にした数人の警察官が追いかけ、そのうちの一人が背後より警棒で頭部を殴つたこと、〈2〉右と略同じ地点辺りにおいて、一見学生風の男が右と同様の服装をした警察官に捕まり引き倒されたこと、〈3〉数十人の一見学生風の集団に対し、これを追つてきた数十人の警官隊が警棒で打ちかかるという場面が同十字路衆議院車庫側の三箇所位において展開されたこと、〈4〉約一〇〇名位の者が、同車庫に沿い同十字路を左折し特許庁方向へと逃げて行き、その後を武装した二〇名位の警察官が追つてきて、そのうちの一人が同十字路を左折した直後、逃げる人々の最後尾にいた白髪混りの男に足をかけて倒し、数人の警察官がその倒れた男を警棒で殴りつけたこと、〈5〉ワイシヤツ姿の二八才位の男が同十字路を左折して特許庁方向へ逃げて行くのに対し、鉄帽をかぶり黒い感じの服装をした一、二名の警察官が背後から蹴つたこと等を目撃している旨供述しているのである。

(3) 各被害者の供述

大研研中、後に第六(各説)において掲げる(1)福井正雄以下七四名のうち(82)斎藤俊男を除く七三名の者は、全部同人らが大研研と第五機動隊との遭遇の際に負傷の被害を受けた旨主張し、かつ、右七三名中(31)田代正夫、(53)岩上博司、(63)吉本普、(69)安田善昭、(71)西岡昭を除く六八名の者は自己の被害の全部又は一部は警察官の行為(警棒その他これに類する持物又は手による殴打或いは足蹴足払い等)により生じたものに相違ないとかそれにより生じたものと思うとか供述をしているのであつて、このことは、各説において詳述するとおりである。

〔3〕いわゆる現場写真一枚について

(1) 弁護士鳥生忠佑の昭和三七年一一月九日付任意提出書、東京地方検察庁検察事務官伊東礼仕郎の同日付領置調書(以上送付書類三編綴)、不起訴裁定書、証人有田栄二の供述(第一回)及び東京地方検察庁検察官検事河井信太郎の昭和三七年一一月三〇日付刑事訴訟法第二六二条に基く付審判請求書等送付書によると、いわゆる大研研事件の告発人の一人である弁護士鳥生忠佑は昭和三七年一一月九日に写真一枚(以下いわゆる現場写真一枚と略称する。)を、衆議院車庫前において第五機動隊が大研研に対し暴行をしている一場面の現場写真であると称し、東京地方検察庁大研研関係事件担当検察官に提出してその取調を求めたところ、同事件はその翌日である同月一〇日不起訴処分となつたため、同月三〇日右写真は刑事訴訟規則第一七一条による送付記録の一部として送付証拠物目録符号五三という扱で当裁判所に送付されたことが認められる。

(2) そして証人(27)高野元信、同(128)辻川浩、同千田勝久、同阪口宏司、同浅見輝男の各供述(各受命、高野、辻川、千田は各第一回)によれば、右写真には大研研の者である千田勝久、(27)高野元信、阪口宏司、浅見輝男、(5)今西章等が映像されていることが認められる。

(3) しかし、その写真に映像されている警察官が第五機動隊員であるか否かにつき、本件の被疑者となつた四四四名の第五機動隊員中死亡者二名を除く四四二名の各員についての検証(身体検査)の結果に照らし合わせ逐一検討したが、そのいずれとも右写真映像の警察官が同一人であるとは認め難いので、右写真の場面が第五機動隊員において大研研に対し暴行をしているところであると断定することはできない。因に、(128)辻川浩は証人として「この写真(註・いわゆる現場写真一枚)の中央において倒れかかつている者は私である。私は六月一六日午前一時過頃大研研の一員として衆議院車庫前において警官隊に襲われ、その際警察官から警棒で暴行をされた。私に対する加害者は、その写真【註・前記第四の二の(四)の(1)の(イ)の第五機動隊員の写真】の中で(88)田辺寛、(34)火谷嘉利、(159)井郷政次の三名に似ている。」旨供述し(受命第一、二回)、一方(88)田辺寛の供述の経過(検察官調書、受命第一、二回)に照らすと、同人の行動に関する供述には不審なところがあつたので、当裁判所により特に同人の鉄帽、制服姿の容貌、体格につき右写真に映像されている警察官と同じ角度から見る検証(身体検査)をも行つたが、両者の容貌は鼻の稜線、耳の形、位置、口もとの形等が似ていなくて、同一人とは認め難く、他の二名についても到底同一人とは認められない。

(4) 一方、右のいわゆる現場写真一枚と同一原版(後に当裁判所において東京地裁昭和三八年押第一五九三号の一三として押収した。)に基く写真で警視庁公安部公安第一課巡査部長山本繁の「昭和三五年六月一六日午前一時二五分頃国会正門前においてデモ隊を国会第一通用門(註・参議院第一通用門を指す。)方向に排除している状況を撮影したものである。」旨の説明がその台紙に記載されたものがあるが、同人は、これを同夜これと前後して同人が撮影した旨の説明を記載したその他の多数の写真と一括して昭和三五年六月二一日付の同人作成名義の写真撮影報告書に添付(右いわゆる現場写真一枚は其の八のNo.27)し警視庁公安部公安第一課長宛に提出し、その後間もなく同課長がこれを東京地方検察庁に送付したが、同検察庁においては右いわゆる現場写真一枚を含む其の八の部分が大研研関係事件担当官の方に廻されず、それとは別の刑事事件担当官の方に廻され、そこで右別事件の証拠としてそのまま保管されていた関係上、本件に関する検察庁から当裁判所に対する最初の記録送付の際には送付されず、当裁判所の送付嘱託により、東京地方検察庁総務部長検事吉川正次から昭和三九年三月二七日当裁判所に送付されたものである。

(5) ところで、右写真撮影報告書及び添付写真の控が警視庁公安部公安第四課に保存されていたところ、民事事件において用いるため、右控に基き右山本繁作成名義公安部公安第一課長宛の写真撮影報告書及び添付の右写真の複製が昭和三七年五月一〇日付をもつて作成され、それが民事事件の裁判所に提出されると共に、一方右昭和三七年五月一〇日付写真撮影報告書及び添付写真の謄本が東京地方検察庁大研研関係事件担当検察官宛にも送付され、同謄本は同事件不起訴処分後送付記録の一部として送付書類目録番号三一という扱で当裁判所に送付されている。

(6) そして、本件当時第三機動隊第二中隊第二小隊長であつた山田年は、民事事件(第一一回口頭弁論、一八四一丁)においても、当裁判所(受命)においても、証人として、右写真に映像されている警察官は自分が昭和三五年六月一六日午前一時二六分頃国会正門前において群衆をチヤペルセンター前、都電国会議事堂前停留所方向に排除している際の姿である旨供述している。

(7) そこで、当裁判所は山田年の鉄帽、制服姿の容貌、体格の検証(身体検査)を行い、更に鑑定人斎藤銀次郎に対しいわゆる現場写真一枚に映像されている警察官と山田年とが同一人であるか否かにつき鑑定を求めたのであるが、右山田年の検証(身体検査)の結果及び右鑑定人作成の鑑定書に徴すると、右現場写真一枚に映像されている警察官が山田年であるとは断定し難く、又同写真台紙の撮影日時、場所及び状況説明に関する記載も、右撮影時及びその前後の採証活動状況に関する証人山本繁の供述(裁判所及び受命)に照らし、正確度のきわめて高いものとは必ずしも認め難く、結局同写真の場面が右山田年において昭和三五年六月一六日午前一時二五分頃国会正門前における同写真映像の群衆を排除しているところであると認定することもできない。

(8) 因に、当裁判所は、いわゆる第三次実力行使の際に第五機動隊員が実力を行使している場面の写真の有無について、東京地方検察庁から送付を受けた記録中の多数の写真を検討した外、警視庁に対し第五機動隊特務写真係員等警視庁警察官が本件の時撮影した写真原版のすべての提出を求め、それに応じて提出されたものの検討をしたところ、警視庁公安部公安第一課巡査松原文一作成の昭和三五年六月一六日付写真撮影報告書その三(送付証拠物二四)No.22の写真及び第一機動隊本部写真班員北里邦雄の検察官調書(送付書類二一編綴)に添付してある写真(七)の二枚に第五機動隊員各一名が映像されていることがその鉄帽の5の印により明認できたが、それ以外に第五機動隊員が映像されていると認められる写真は一枚も発見できなかつた。しかも右二枚の写真はいずれもそれに映像されている警察官が警察官以外の者に対して実力行使をしている場面のものとは認められず、結局第五機動隊員が実力を行使している場面の写真は一枚も発見できなかつた。

〔4〕大研研側の負傷中に第五機動隊員の行為(警棒その他これに類する持物又は手による殴打或いは足蹴足払い等)以外のことを直接原因として生じたものがあるか

(1) 負傷した大研研の者のうちにも、負傷の直接原因は警察官の行為以外のことであると供述する者がいる。それは(15)池端功、(31)田代正夫、(32)野田正穂、(52)立花毅、(53)岩上博司、(63)吉本普、(66)服部正志、(69)安田善昭、(71)西岡昭(ただし池端功、野田正穂、立花毅、服部正志は各負傷の一部についてのみ。)の九名であつて、その供述内容は第六の二〔二〕、三〇、三一、五〇、六二、六五掲記のとおりであるが、これらの供述によると、大研研の中には転倒したり、屋台店に躓いたり、塀で擦つたり、自動車に身体を押し当てたり、焚火に足を落したり、溝に落ちたり、或いはプラカードか何かに躓いて倒れたりして負傷した者があつたことが認められる。

そして、証人(2)新井浩の「首相官邸前十字路の衆議院車庫角附近において、白いシヤツを着た男が特許庁方向に逃げる男を長い竿で殴つた。」旨(受命)、被疑者(23)山田広吉の「衆議院車庫の角の地点に進んだ時屋台がひつくり返つており、中年の男が屋台をひつくり返されてひどい目に遭つたこれもみんな君達のためだといいながら、棍棒のようなものを振り廻して、学生に乱暴しておるのを隊員が宥めているのを目撃した。」旨、被疑者(26)稲田淳夫の「首相公邸前交叉点角にいたオデン屋の主人らしい二五、六才の男は、屋台と塀の間を逃げて行く学生を後ろから、屋台を置くとき使うつつかい棒だと思うが、長さ三尺くらいの棒で殴りつけておつたが、殴られた学生はそのままどんどん下の方に駆けて行つた。」旨(各検察官調書)の各供述等からして、大研研の中にも屋台店の主人らしき者に殴られた者もいたのではないかと推測され、又大研研約三〇〇名もの集団が一斉に退散することを迫られて、深夜これが後退したものであることを考えると、その際、転倒する、側溝に落ちる、或いは塀に突き当るなどして負傷した者が、前記九名以外にもいたのではなかろうかと推測できないわけではない。しかし屋台店の主人らしき男も、(23)山田広吉の供述からも窺われる如く、長時間に亘り間断なく殴つていたものではないし、同機動隊が大研研と遭遇し、これを排除した時の状況が前記第五の三の(二)の(1)ないし(3)の如き程度に止どまつている以上、大研研中右のようなことを直接原因として負傷した者が、前記九名を大幅に越え、相当多数いるものとは認められない。

(2) 又、前記第五の二の(一)、(二)のとおり(45)早川正賢外一二名【(3)、(10)、(38)、(18)、(42)、(23)、(33)、(52)、(54)、(56)、(57)、(4)】など大研研の中には衆議院車庫前を一旦離れた者がいたことが認められる。しかし、本件の全証拠に照らしても、右一三名の者がその際、つまり同機動隊の部隊行動とは無関係の時期、場所において負傷したと窺わしめる証拠はない。

〔5〕大研研側の被害に関する裁判所の判断

以上第五の一、二、三、四の(二)の〔2〕の(1)、(2)、(3)、〔4〕において摘示した各事情を綜合し、かつ本件に関する全証拠に徴すると、次のとおり判断される。

(1) いわゆる第三次実力行使の際に大研研側が受けた負傷の被害中には、警察官の行為以外のことを直接原因として生じたものも若干はあつたがそのような負傷者が相当多数いるものとは認められないことは右〔4〕において説示したとおりである。若し第五機動隊員の前記〔2〕の(1)のとおりの各自の自己の行動に関する供述を全部措信すべきものとすれば、第三次実力行使の際に大研研側が受けた負傷の被害で警察官の行為を直接原因として生じたものは殆んど全くなかつたということとなるわけであるが、そのような状況であつたとは到底認められない。

(2) 右〔2〕の(3)において記述したとおり、大研研中後に各説において掲げる福井正雄以下七四名のうち(82)斎藤俊男を除く七三名の者は全部同人らが大研研と第五機動隊と遭遇した際に負傷の被害を受けた旨主張し、かつ右七三名中(31)田代正夫、(53)岩上博司、(63)吉本普、(69)安田善昭、(71)西岡昭を除く六八名の者は、自己の被害の全部又は一部は警察官の行為(警棒その他これに類する持物又は手による殴打或いは足蹴足払い等)により生じたものに相違ないとかそれにより生じたものと思うとか供述しているのである。ところで、右供述の信憑性についてであるが、そのうち各説において特にその措信できない旨説示したものを除き、すべてこれを措信すべきものであると認められる。そして、その供述その他の証拠により、大研研中警察官の行為(警棒その他これに類する持物又は手による殴打或いは足蹴足払い等)により傷害の被害を受けた者は少なくとも被害者名簿番号(1)、(2)、(15)、(3)、(4)、(45)、(5)、(6)、(7)、(9)、(10)、(11)、(12)、(13)、(14)、(16)、(17)、(70)、(18)、(19)、(20)、(21)、(22)、(23)、(24)、(25)、(26)、(27)、(28)、(29)、(30)、(32)、(33)、(34)、(35)、(36)、(37)、(38)、(40)、(41)、(42)、(43)、(44)、(46)、(47)、(48)、(49)、(50)、(51)、(54)、(55)、(56)、(57)、(58)、(59)、(60)、(61)、(64)、(65)、(66)、(67)、(68)、(72)の以上合計六三名にのぼり、そのうち被害者名簿番号(1)、(2)、(5)、(10)、(12)、(16)、(20)、(21)、(24)、(30)、(32)、(35)、(37)、(40)、(42)、(59)、(64)、(67)、(72)の合計一九名は右傷害に加えて単なる暴行の被害をも受け、その他被害者名簿番号(71)の一名が単なる暴行のみの被害を受けたものと認定される。このことは後に第六(各説)において詳述するとおりである。

(3) そして、その際警棒その他これに類する持物又は手による殴打或いは足蹴足払い等により大研研中右六三名の者に対し傷害の被害を与え、そのうち一九名に対し右傷害に加えて単なる暴行の被害をも与え、その他一名の者に対し単なる暴行のみの被害を与えた警察官はいずれも第五機動隊員であつたと認められるのである。もつとも、裁判所において審理を尽した結果においても、右各被害に対応する加害者の氏名を個別的に特定することはできなかつたのであつて、このことは、後に第六(各説)において詳述するとおりである。

(4) 第五機動隊員中には、その際警棒又は自己の手足等により相手の身体に接触したことを認めるものが五十数名いるが、それはすべて正当な職務の範囲内の行為又は正当防衛である旨主張する。しかし、各説において認定された大研研の傷害、暴行の各被害に関する限り、その原因となつた第五機動隊員の行為が正当な職務の範囲内の行為或いは正当防衛又は緊急避難にあたる行為であると認めるべき証拠は見当らない。

第六、各説

別紙被害者名簿掲記の者のうち、前記第三の五において説示した七四名の者につき、以下個別に検討を加える。

一、(1)福井正雄

(一)  医師橋本稔作成の診断書(福井正雄検察官調書添付)、医師綿貫哲作成の診断書(民事事件甲第一号証の一)及び歯科医師神山文夫の証明書(福井正雄検察官調書添付)により福井正雄が頭頂部及び左頬部裂傷・左顎部打撲全治二〇日並びに左側上顎中切歯、側切歯歯根破折の傷を負つた事実が認められる。

(二)  右傷に関しては、その原因につき、福井正雄の証人としての「私は六月一六日午前一時過頃大研研の一員として衆議院車庫前にいたところ、警官隊に襲われた。私の面前にきた一警察官から警官隊の列中に引き倒されるやその引き倒した警察官及び周囲にいた四、五人の警察官が警棒で私の頭、顔等全身を殴打したのである。」旨の供述(受命第一回)並びに証人(82)斎藤俊男の「衆議院車庫前において、福井正雄が警察官から棒で叩かれていたのを目撃した。」旨の供述(受命第一回)及び証人(124)柴野睦郎の「衆議院車庫前において、福井正雄が四、五人の警察官に引き倒され、背後から取り囲まれて肩を押えられ、顔等を警棒で叩かれていた場面を目撃した。」旨の供述(受命)があり、右各証拠によると右傷が警察官の警棒による殴打等により生じたことを認めうる。そして、その加害者の特定につき、福井正雄は証人として「暴行した警察官のうち警官隊の列中へ引き倒し四、五人の他の警察官と共に殴打した警察官は、身長一六九糎の私より大きな男であつて(私が話しかけた時、私に屈みこむようにして耳をかたむけたことからして大変背の高い男である〔人権調査書(2)一丁〕。)、鉄帽をかぶり警棒を手に握つていたが、雨合羽は着ていなかつた。この被疑者写真【註・前記第四の二の(四)の(1)掲記の第五機動隊員の写真(以下本件被疑者写真と略称する。)を指す。】の中では(344)加美山篤、(273)霜山武二の両名がその加害者に似ている。」旨供述し(受命第一、二回)、証人福井正雄に加美山篤、霜山武二両名を対面させたところ、同証人は、「加美山篤は全然違うが、霜山武二は体格、顔等似ている。似ている程度は六〇パーセント位である。」旨供述した(受命第二回)が、証人斎藤俊男、同柴野睦郎の両名からは本件被疑者写真の中からその指示がえられなかつた。

そこで、霜山武二が加害者の一人であるかどうかであるが、同人は「南通用門から首相官邸前十字路に至る区間、即ち衆議院車庫前では警官隊の先頭より三〇米位後方に位置して、他の隊員らと共に進んだだけである。その間において一度停止したことがあつたけれども、それは部隊の前の方が停滞したため必然的に停止せざるをえずして停止したにすぎなかつた。この区間において警察官以外の人と接触したことはなかつたし、もちろん警棒は使つていない。」旨前記福井正雄の供述に照応しない供述をしている(受命第一、二回、検察官調書、調査票(2)一四九丁、答申書35・6・30付)。そして、他に霜山武二が加害者であると認めるに足る証拠を発見しえないので、同人が加害者に六〇パーセント位似ているという福井正雄の前記証言により右霜山武二を加害者であると断定することはできない。のみならず、同人は身長が一六六・五糎であり、本件当時雨合羽を着用していた旨供述しているのであつて(身長体重についての照会回答書、受命第一、二回)、同人の服装特徴等が証人福井正雄の指摘している加害者のそれと合致せず、むしろ霜山武二は福井正雄が供述している加害者ではないと認めるのが相当である。なお、記録上衆議院車庫前において集団に接近して同集団の者と問答したと認められる(81)成沢忠彦を右福井正雄と対面させたところ、福井正雄は証人として「私が話しかけた相手方即ち加害者ではない。」と供述し(受命第三回)、結局証人福井正雄、同斎藤俊男、同柴野睦郎の各供述からも右の加害者を特定することはできない。

(三)  単なる暴行について、福井正雄は検察官、人権擁護局係官に対し、或いは民事事件において原告として、「逮捕されては大変だと思い、最後の力をふるいおこし皆の最後尾について行つたが、二回位警察官から襟首を捕えられ路上に引き倒され殴られたり蹴られたりした。その度にこいつ逮捕だというと打つのをやめて走つて行つた。それから首相官邸前を左に曲つてしばらくしたところでもう一度引きずりこまれて殴られた。」旨供述していた(検察官調書、人権調査書(2)一丁、民事事件第一二回口頭弁論、二〇九八丁)のであるが、当裁判所において証人として供述を求めたところ、右の供述とは著しく異り、「首相官邸前十字路辺りで襟首を掴まれ引き倒された。その加害者は浴びせられた罵声からしておそらく警察官と思うが、断定はできない。それから同十字路を左折後に二箇所でそれぞれ右十字路の時と同様の暴行を受けたような印象があるけれども、はつきりした記憶はない。」旨供述する(受命第一回)に至り、前者、後者の各供述を通じ一貫して維持している点は首相官邸前十字路辺りで襟首を掴まれ引き倒されるの暴行を受けたとの供述のみであり、警察官からその程度の暴行を受けた事実は認めうるが、その加害者の特定については、同人の供述が不明確であつて、その供述から加害者を特定することはできない。

(四)  その他全証拠に照らしても、以上の各加害者を特定することができない。

二、(2)新井浩、(15)池端功

〔一〕新井浩

(一) 医師服部孝雄作成の診断書(新井浩検察官調書添付)により新井浩が前額部挫創・右胸部挫傷(肋骨不全骨折)全治約一月の傷を負つた事実が認められる。

(二) 右傷のうち

(1) 前額部挫創に関しては、その原因につき、新井浩の証人としての「私は六月一六日午前一時過頃大研研の先頭に位置して、衆議院車庫前路上にいたところ、我々のところへ向つてきた警官隊の一人に正面から警棒で一回殴打されたものである。」旨の供述(受命)及びこれと同旨の供述をしている検察官調書、民事事件原告調書(第一三回口頭弁論、二三一四丁)があり、右各証拠によれば右傷は警察官の警棒による殴打により生じたことを認めうる。しかし、加害者の特定につき、新井浩は証人として「本件被疑者写真を閲覧、検討してみたけれども、加害者は身長一六五糎の私より背が高く鉄帽、制服姿であつたという程度の記憶しかないため、同写真の中からその指示ができない。」旨供述し(受命)、同人の供述から加害者を特定することはできない。

(2) 右胸部挫傷(肋骨不全骨折)に関しては、その原因につき、医師服部孝雄が骨折の部位(右脇の下背中寄りの部分で第九番目肋骨)及び挫傷の形状からして背後より棒状の物体で強く突かれた場合にできる可能性がある旨の診断をしている(藤原嘉民・吉村清作成調査報告書36・1・30付人権(5)一〇〇丁)ところ、新井浩の「衆議院車庫前路上を首相官邸方向へと逃げて行く途中において、断定することはできないが、おそらく警察官と思われる者に背後より堅い物体で数回に亘り肩、背中を殴られ倒れたことがあつた。」(証人受命)とか、「首相官邸前十字路を左折すると衆議院車庫沿いに自動車が駐車していて、その自動車と塀の間で後頭部、背中、腰等を数回警棒で殴られた。」(検察官調書)とかの供述があり、同人は背部を何回も警棒や堅い物体で殴られたことがあるという。しかし、同人は逃げる途中、度々躓いて転倒している事実があるし(検察官調書、民事事件原告調書、第一三回口頭弁論、二三一四丁)、同人自身証人として「肋骨々折は逃げる際負つたものであるが、何処でどのようにして負つたものかわからない。」旨供述(受命)しているのであつて、右傷の原因を警察官の暴行によるものと断定することは躊躇され、他にこれを認定するに十分な証拠はない。

(三) 単なる暴行について、新井浩が前記(二)の(2)の如く供述しており、右各供述により同人が警察官から肩、背中を棒様のもので殴打されるという暴行を受けたことを認めうるが、前同様同人の供述からその加害者を特定することはできない。

〔二〕池端功

(一) 医師菊地一男の診断書(池端功検察官調書添付)により池端功が両下腿挫創、左手掌背部挫創、左肘打撲症の傷を負つた事実が認められる。

(二) 右傷のうち

(1) 右下腿挫創に関しては、その原因につき、池端功の証人としての「私は六月一六日午前一時過頃大研研の一員として衆議院車庫前にいた。同所から特許庁方向へと逃げる間に、首相官邸前車庫側路上において、斜前方から近寄つてきた警察官に右脚を蹴りあげられ、同所に駐車中の自動車に寄りかかるように倒れてしまつた。ようやく立ちあがつてよろよろしながら進みはじめると、又横の方から近寄つてきた他の警察官に前と同じように右脚を蹴られた。」旨の供述(受命)及びこれと同旨の供述をしている検察官調書、民事事件原告調書(第一四回口頭弁論、二五九八丁)等があり、右各証拠によれば右傷は警察官の足蹴により生じたことを認めうる。しかし、その加害者の特定につき、池端功は証人として「二名の警察官はいずれも一五五糎の私より背が高く、鉄帽をかぶつていたが雨合羽は着ていなかつた。中でも最初に蹴りあげた警察官は非常に大きな男で、しかも柔道でもして体を鍛えているような体格であつたが、本件被疑者写真を閲覧、検討してみたが、その中からその指示ができない。」旨供述し(受命)、同人の供述からその加害者を特定することはできない。

(2) 右(1)以外の傷に関しては、その原因につき、池端功は証人として「逃げる途中に塀で擦つたり、駐車中の自動車に突き当つたりしたのでその時負つたものと思われる。」旨供述(受命)しているのであつて、それらの傷が直接警察官の暴行により生じたものではないことが明らかである。

〔三〕アサヒグラフ一九六〇年六月緊急増刊号(送付書類二七の七)一三頁上段に「激突地点を辛くも脱出した負傷者は国会裏の道路を逃げまどう、体力を使い果したところへ雨でぬれた道路に足をとられ、バタバタ倒れる者が続出し血は流れ放題、クツもすでにない、このまま手当を受けないで帰つた人も少なくなかつた。」との説明書きがある写真及び朝日ジヤーナル昭和三五年七月三日号(送付書類二七の一〇)一八頁上段に「警官に追われ打ち倒された大学、研究所グループ」との説明書きがある写真に右新井浩、池端功両名が写されているけれども、いずれも傷の原因を確定する証拠、加害者を特定する証拠としては不十分のものである。

〔四〕その他全証拠に照らしても、新井浩の(二)の(2)の負傷原因を確定することも、両名に対する各加害者を発見、特定することもできない。

<三ないし八略>

九、(9)高橋信一郎

(一) 医師安田栄一・同神蔵寛次作成の各診断書(高橋信一郎検察官調書添付)、梅田昌博作成調査報告書35・11・10付【人権(5)八四丁、医師神蔵寛次より「高橋信一郎は六月一七日夜入院した者で、慈恵医大で診療を受けたところ、胸を打たれ自然気胸をおこしていると訴えていたけれども、私の聴診では右肺全体の呼吸音が多少荒く感じられた程度であつて、レントゲン検査の結果では、その症状は完全に消失していた。又痣程度の右肩胛骨皮下出血や、本人が訴える腰部打撲についても、負傷後日時が経つているため、何によつて負傷したものか判断できない。なお本人は、六月二八日まで入院していたが、その間一九日から二五日まで三七度の微熱が続いたけれども、その原因ははつきりしない。」旨の事情聴取をしたと記載されている。】及び高橋信一郎の証人調書(受命第二回、裁判所第四回)により高橋信一郎が胸部・腰部打撲加療一三日、右肩胛骨皮下出血(痣)の傷を負つた事実が認められる外、顔面打撲の傷を負つた事実も認めうる。

(二) 右傷のうち

(1) 胸部打撲、右肩胛骨皮下出血に関しては、その原因につき、高橋信一郎が「私は六月一六日午前一時過頃大研研の一員として衆議院車庫前路上にいた。首相官邸前十字路の衆議院車庫側を左折し、特許庁方向へ逃げたが、左折したすぐ先には同車庫の塀沿いに二台の小型乗用車が駐車しており、その一台目の自動車と塀の間をとおり抜けようとした時警察官にこの自動車の上から堅い棒状のもので脊骨上を強打された。」旨供述(証人受命第一、三回、検察官調書、民事事件原告調書第一四回口頭弁論、二七三一丁、人権調査書35・9・28付(2)一六六丁)していることからして、右の右肩胛骨皮下出血は警察官の警棒による殴打により生じたことを認めうるが、その加害者の特定につき、高橋信一郎は本件被疑者写真の中からその指示ができず(証人受命第一回)、同人の供述から右の加害者を特定することはできない。又、胸部打撲症も右警察官の警棒による殴打が原因しているのではないかと推測はされるが、前掲医師神蔵寛次の診断所見、その他全証拠に照らしても、その原因を確定することはできない。

(2) 顔面及び腰部打撲に関しては、その原因につき、高橋信一郎の証人としての「首相官邸前衆議院車庫沿いに駐車中の一台目の自動車と塀の間をとおり抜け、次の二台目の自動車との間に出たところ、同所において警察官らに捕まり罵られ、腕章や携帯用電気メガフオンを取りあげられた末、警察官からまず顔面、鼻、口部を手挙(白軍手を着用していた。)で殴打され、瞬時の後今度は左腰部を蹴あげられたのである。」旨の供述(受命第一、三回、裁判所第四回)及びこれと略同旨(後記の如く加害者がどのような者であつたかについては差異がある。)の供述をしている検察官調書、民事事件原告調書(第一四回口頭弁論、二七三一丁)、人権調査書(35・9・28)付人権(2)一六六丁)があり、右各証拠によれば右の傷は警察官の手拳による殴打及び足蹴により生じたことを認めうる。そして、その加害者の特定につき、高橋信一郎は証人として「黒いヘルメツト、雨合羽を着用しておりベルトつき半長靴を履き白い軍手もはめていて、年令は二二、三才位の丸顔の感じの人である。本件被疑者写真中(156)宮田頼芳、(61)早野隆、(368)山口正男、(45)東島治芳、(27)山頭修一、(92)入佐喜芳の六名が似ており、中でも宮田頼芳は写真では激怒している感じが欠けているけれども、その点を除けば、大変よく似ている。次に似ているのは入佐喜芳である。」旨供述し(受命第一回)、宮田頼芳ら右六名に対し、鉄帽のみをかぶらせたうえ更には鉄帽と雨合羽をも着用させて右高橋信一郎と対面させたところ、同人は証人として「宮田頼芳が最も酷似しており、写真同様表情が現在では穏かすぎる欠点があるけれども、それも緊張したならばおそらくあの加害者の表情と同じになるように思われるので、その似ている程度は九九パーセント位にみてよい。次に似ているのは入佐喜芳であるが背丈がやや高すぎるように思われるので、似ている程度は八〇パーセント位になる。その次は早野隆であり七〇パーセント位、他の三名は四〇パーセント位か、それ以下である。中でも東島治芳は該当しないものと思う。」旨供述する(受命第二回)。しかも、高橋信一郎は従前加害者の特定について、「人相特徴等を具体的に言葉で表現することは困難であるが面通し等をすればわかるかも知れない。」旨供述していた(人権調査書35・9・28付(2)一六六丁)ことを考える時、同人が宮田頼芳に対し九九パーセント位加害者に似ているという右証言はきわめて注目に値する。

ところで、これに対し宮田頼芳は「本件の時私は、鉄帽雨合羽に革製半長靴姿であつて、白い軍手もはめていた。又私の体重は本件当時と現在とで余り変りがなく、従つて顔形や体格も本件当時と現在とで特段の違いはない。しかし私は国会構外に出てから南通用門前、衆議院車庫前を経て首相官邸前角の警察官派出所前までしか行つていない。そこまで行つたけれども、所属の二中隊が何処へ行つたのかわからなかつたので、同所にたたずんで同中隊が戻つてくるのを待つていた。約五分位待つていると、特許庁方向から同中隊が引揚げてきたので、これに復帰したまでであり、私はその警察官派出所と道路を挾んで反対側になる衆議院車庫側へは行つていない。」旨供述し(受命第一、二、三回、裁判所第四回)、その他宮田頼芳の供述に関する書面としては、検察官調書、調査票((1)一九五丁)、人権調査書(人権(3)一四一丁)、答申書(35・6・20付二通)の以上九通があるが、右のどの書面の記載においても、同人が首相官邸前衆議院車庫沿いに駐車中の自動車の間に立ち入つたような供述はみられない。それで宮田頼芳の以上各供述のとおりであるとすれば、同人が高橋信一郎に対する右加害者である余地はないこととなる。しかしながら、宮田頼芳の以上各供述を対比してみると、後に指摘するとおり、首肯し難い点や不可解な点があり、その供述には信を措き難いのである。即ち、同人が検察官調書において供述している要旨は、「(イ)衆議院車庫前までくると、同所にはスクラムを組み旗竿をふりまわし、警官隊が近寄れない様にしている約一〇〇名位のデモ隊がいた。警官隊は、これと約二米の間隔をおいて対峙した。私は前から三列目位に位置していた。間隔をおいていると、石が飛んでくるので、部隊はデモ隊に接触した。すると、デモ隊は後部の方からどんどん逃げて行つたが、隊員の中にはデモ隊から棒で殴られたり、プラカードで突かれたりしている者もいた。警官隊の方は殆んど手で押した。このようにして首相官邸の方に排除して行つた。(ロ)首相官邸前十字路にさしかかると、数名の学生が衆議院通用門の方に行こうとしていたので、私は口頭で特許庁の方に行くことを指示したところ、その学生達は素直に聞き入れ特許庁の方に向つたが、その中の一人で二〇才位の痩型で長髪をバラバラにしていた男が持つていた旗竿で私に対し殴りかかつてきたので、私は一歩退つてこの竿を掴んだところ、学生は一目散に特許庁方向に逃げて行つた。そうこうしているうちに中隊を見失つたので、これは大変だと思い首相官邸前辺りに立つて附近の様子を見ていた。(ハ)私が立つていた向う側衆議院車庫の曲り角のところで、学生四、五人と警察官四、五人がプラカードと警棒でわたり合つていた。学生達は警察官に特許庁方向へ排除されてしまつた。」というのであり、調査票、人権調査書、答申書における供述内容も略右と同旨であつて、答申書(送付証拠物一編綴)には右の検察官調書供述要旨(ハ)の点につき「反対側の道路上を血まみれの学生達が車の間を抜けて特許庁方向に逃げていた。そのあとを他の隊員が警棒を抜いてあとを追いかけ近ずいては打つているのを見たが、学生達も棒切で手向かつているようであつた。」とまで記述しているにかかわらず、当裁判所並びに当裁判所受命裁判官の取調に際しては、検察官調書供述要旨(イ)、(ロ)、(ハ)の各点につき、検察官調書等に記載があるならばその取調当時においては確かに覚えていてそのように述べたものと思うが、現在ではもうそれらの点を覚えていないとか、(ハ)の点につき、答申書において右のように記述している本意は、何も警察官が暴行している場面ではなく、デモ隊が警察官に殴りかかつている場面を記述したものであるとか、首肯し難いような供述をするばかりでなく、右検察官調書の供述記載自体についても、前記のように首相官邸前十字路において衆議院通用門の方に行こうとする数名の者を特許庁方向へ誘導し、それからその中の一人が殴りかかつてきた旗竿を掴み押えたという僅かな間に、中隊の所在がわからなくなつたとある部分の如きは、まことに不可解な供述といわないわけにいかないのである。そこで、宮田頼芳は実際は首相官邸前衆議院車庫沿いに駐車中の一台目の自動車と二台目の自動車との間まで行き、高橋信一郎に対しその顔面を殴打し腰部を蹴る等の暴行を加え同人供述のような傷害を負わせたものであるのに、その加害の事実を隠蔽しようとして虚偽の供述をするため、その供述が前示のように首肯し難いものになつたり不可解なものになつたりするのではなかろうかとの疑惑が相当強く生じてくるのである。

しかし、ひるがえつて高橋信一郎の加害者の特定に関する従前からの供述をよく検討してみると、まず検察官調書(35・9・16付)においては「自動車と自動車の間に出ると、五、六人の警察官が取り巻き私が腕章をしていてマイク(携帯用電気メガフオンを指すと認められる。以下同じ。)を持つているのを見付け、貴様が指揮者か、お前が煽動しやがつた等と罵り、その中の一人が手拳で私の顔面を一回強く殴つてきた。そして別の警察官にマイクも腕章も取りあげられた。それからしばらくして後、道路を駆け抜ける警官隊の中の一人が私達の方を見て、そんなことをしろとはいわれんぞと叫んで行つた。すると、私に暴行を加えた警察官達は逮捕だ、逮捕だといつて私の腰を蹴飛ばして、衆議院通用門前へつれて行つた。」旨供述する。即ち、この段階における供述では、顔を殴つた警察官と携帯用電気メガフオン及び腕章を取りあげた警察官とは別人であるが、腰部を蹴つた警察官との関係は明らかでないのである。ところが、人権調査書(35・9・28付)においては「一台目の自動車の前へ出たところで、五、六人の警察官が私に向つてきた。私が携帯マイクを持つていたのでそう思つたのか、貴様が指導者か、てめえが煽動したのかなどというので、違うと答えたところ、マイクをよこせといつてひつたくり、更に別の警察官に腕章をもとられた。法政大学の奴が何んで国会前をうろうろしているんだ生意気なといい、腕章を取つた警察官が顔面を激しく殴打した。やめろやめろそんなことはいわれていないぞという声が聞え、ヘルメツトをかぶりレインコートを着た連中が通過すると私を殴つた男は舌打ちをして靴で腰部を蹴飛した。」旨供述する。即ち、顔を殴つた警察官と腰部を蹴つた警察官が同一人であるというだけでなく、腕章を取つた警察官とも同一人であるとの供述が変るのである。次に、民事事件原告調書(37・8・8の第一四回口頭弁論、二七三一丁)においては「一台目の自動車と二台目の自動車との間で、最初首相官邸正門の方角から二人の男がきて、そのうちの一人が腕章をはずし、次に二台目の自動車の方角から二人と正面の辺りから一人都合三人の男がきて、そのうちの一人がマイクを肩からはずして取りあげ、拳で顔を殴り、それから瞬時の後二台目の自動車の方角からきた男のうち、背の低い黒つぽい男から腰を蹴飛ばされ、最後に最初に近ずいてきた二人の男に衆議院通用門の方につれて行かれた。」旨供述する。即ち、顔を殴つた者と腰を蹴つた者とは同一人でなく、しかもこの両名共腕章を取つた者とは別人になつてしまい、そして今度は携帯用電気メガフオンを取つた者が顔面を殴つた者と同一人になるというように供述が三転する。そして、当裁判所及び当裁判所受命裁判官に対しては「自動車と自動車の間で、まず同地点と首相官邸前十字路の中央部とを結んだ線上の方向から二人の警察官がきて、お前が煽動しやがつたな、よこせといつて別々に両手をとり、腕章及び携帯用電気メガフオンを奪つた。ついで首相官邸の門(特許庁へ通ずる道路に面した門)の方角から現われた一人の警察官も加わり、この三人の中の誰かが、法政大学の野郎(又は奴)が何だつてこんな所をうろうろしやがるんだと怒鳴つた瞬間、後から加わつた警察官が生意気なというと同時に手拳(白軍手)で顔面、鼻口部を殴打した。しばらくして道路上を隊伍を組んだ警官隊が通過して行く際、その隊列内からそんなことをしろとはいわれんぞというような声や、やめろやめろとの声が投げられた。それを聞いて後に加わつた警察官が舌打をするや左腰部を蹴りあげた。それから最初に近寄つてきた二人の警察官が衆議院通用門の方へつれて行つた。」旨供述する(受命第一、三回、裁判所第四回)。即ち、又々顔を殴つた者と腰を蹴つたものとは同一人になり、そしてその人物は腕章や携帯用電気メガフオンを奪つた警察官とは別人であるというように供述が四転することとなつたのである。このように高橋信一郎の供述も、加害者を特定ずける点に関するかぎり、三転四転しており、しかも、そのいずれを措信してよいか不明確である。かかる状況の下においては、たとえ宮田頼芳が九九パーセント位加害者に似ているという高橋信一郎の前記証言があり、かつ宮田頼芳につき、同人が高橋信一郎に対する加害者ではなかろうかとの相当強い疑惑が生ずるような事情が存在することも前記のとおりであるとしても、宮田頼芳が高橋信一郎に対する右の加害者であると断定することは躊躇されるのである。

残る入佐喜芳ら五名についても、入佐喜芳は「本件の時私は鉄帽、雨合羽姿であつたが、手袋をはめていたかどうか記憶にない。もしはめていたとすれば白い軍手である。しかし私は首相官邸前十字路から先、坂下門附近で折り返すまで終始一中隊長指揮の下に道路中央より右側(首相官邸側)を進んで行つたものであつて、衆議院車庫、総理府側へは行つていないのであり、その間において、デモ隊並びにデモ隊員等一般の人と接触したことはなかつた。」旨(受命第一、二回、検察官調書、調査票(1)七一丁等)、早野隆は「本件の時、私は鉄帽、制服姿で雨合羽は輸送車内で焼かれたため着ていなかつた。首相官邸前十字路から先坂下門附近まで一中隊員として同中隊と共に進んで行つたが、デモ隊等一般の人と接触しなかつた。首相官邸前には道路の中央部辺りに自動車が駐車していて、私はその自動車と首相官邸との中間辺りを進んだ。その時の衆議院車庫側の様子は自動車の陰になつていてよくわからなかつた。」旨(受命第一、二回、検察官調書、調査票(1)一一丁等)、山口正男は「本件の時、私は鉄帽、雨合羽姿で白い軍手もしていた。そして首相官邸前十字路から先坂下門辺りまで行つた。何中隊であつたか暗くてわからなかつたが、とにかく先を行く部隊の後方について道路の中央部を進んで行つただけであり、デモ隊その他一般の人と接触しなかつた。」旨(受命第一、二回)、山頭修一は「本件の時、私は鉄帽ではなくて特車帽とかいうヘルメツト(紙や繊維を圧縮したもので作られていて、鍔がなく、鉄帽よりも薄い色をしている。)をかぶり、雨合羽を着て手には写真機を持つていた。首相官邸前十字路を経て坂下門の手前辺りまで行つたが、部隊の後を追つて行つたため、路上で一般の人と接触しなかつた。」旨(受命第一、二回、調査票(2)五三丁等)、東島治芳は「本部操車係であつたため、本件の時には国会構内にいて構外における排除活動には従事しなかつた。」旨(受命第一回、調査票(2)八九丁)いずれも前記高橋信一郎の供述に照応しない供述をしている。もつとも右のうちには山口正男の如く、検察官調書、調査票((2)三三五丁)、答申書(35・7・1付)において、首相官邸前十字路を左折して二〇米位先には総理府側の塀沿いに三台位の自動車が置かれていて、その自動車と塀の間にいた二、三〇人のデモ隊に対し、二、三人の警察官が一人一人両手で広い路上の方へ引張り出しているのを通過していく際目撃した旨供述していながら、裁判所(受命)の取調の際には、自動車があつたことも群集がいたことも見ていないと供述を変え、その供述を全面的には信用できないものもある。しかし、他に右五名中のいずれかが右加害者であると認めるに足る証拠を発見しえないので、同人らが加害者に四〇パーセント位ないし八〇パーセント位似ているという高橋信一郎の前記証言により入佐喜芳ら右五名のうちのなんぴとかが右の加害者であると断定することはできない。

因に、高橋信一郎は証人として「隊伍を組んで通過して行つた警官隊の中で『そんなことをしろとはいわれんぞ』と声をかけた警察官が私の被害場面を目撃していると思われるが、その警察官が(42)関一、(47)川中義雄に似ている」旨供述する(受命第一、三回)けれども、右の両名は本部操車係であつたため、本件の時には国会構内にいて、構外における排除活動には従事していない(各受命第一回、調査票(2)八三丁、九三丁)と認められる。

(三) その他全証拠に照らしても、右(二)の(1)のうち胸部打撲の原因を確定することも、以上の各加害者を発見、特定することもできない。

<一〇ないし六八略>

第七、被疑者らの刑事責任

一、小倉謙、玉村四一、藤沢三郎の責任

(一)  第五機動隊長(1)末松実雄直接指揮下の同機動隊が前記第五の三の(一)、(二)認定のとおり、同人の命令により国会正門脇から道路上に進出し、国会南通用門、衆議院車庫前、首相官邸前を経て特許庁までの区間の道路上において群衆排除の部隊行動をとつた際、少なくとも福井正雄ら大研研六四名の者が前記第五の四の(二)の〔5〕、第六認定のとおり、その第五機動隊員のなんぴとかから警棒その他これに類する持物又は手拳による殴打或いは足蹴足払い等の暴行を受け、そのうち六三名の者は傷害まで負わされたものであるところ、右(1)末松実雄に対し、構外へ進出して群衆を排除すべく命を下した者は、前記第五の一の(三)の(6)、三の(一)認定のとおり、第一方面警備本部長藤沢三郎であり、右の下命を同人に許した者は、前記第五の一の(三)の(5)認定のとおり、警備総本部長玉村四一である。

(二)  しかし、藤沢三郎が玉村四一の諒解をえて、第五機動隊長等に対し、構外へ進出して群衆を排除することを命じたのは、すでに前記第五の一の(三)の(5)、(6)において認定した如く、国会正門が学生を主とする群衆に突破される危機が切迫した時期段階において、これを阻止するため、即ち国会当局の方針に基き決定された警備方針に則り、構内への侵入を速かに排除するためであつて、国会正門前の学生を主とする群衆を排除の対象としたものであり、同地点から遠く離れた衆議院車庫前に滞留していた大研研までをも排除する命令は下していないのである。しかも、玉村四一、藤沢三郎の各検察官調書(送付書類二〇編綴)によれば、藤沢三郎が玉村四一の諒解をえて右命令を下したのは、両名において、国会正門を突破されるのを阻止する措置として、催涙ガスを使用することが適当か否か、又部隊を使つて排除することが適当か否かなどその最善の措置について互に検討し合つた結果、催涙ガスの効力からみてその使用のみでは十分な効果は期待できず、さりとていきなり部隊を出して排除すれば、激しい抵抗に会い衝突を招く危険が多分にあるとの考えから、結局催涙ガスを使用して相手側の抵抗を抑え衝突を避けると共に退散を余儀なくせしめたうえで、部隊による排除を行う以外にないとの結論に達したからであつたと認められる。

そして、学生集団の前日一五日から当日にかけての前記第五の一の(三)認定のとおりの行動にかんがみると、玉村四一、藤沢三郎の両名が右の時期段階において、国会正門前の学生を主とする群衆に対し、右のような状況判断の下で右のような実力行使の命令を下したのは、己むをえない相当な措置であつたと認められ、右両名がこの実力行使に当り、不法又は不当な実力を行使する意図があつたとは認められず、又(1)末松実雄以下の第五機動隊員等に命じ或いはこれと共謀のうえ大研研はもとより、国会正門前の学生を主とする群衆に対しても、暴行陵虐傷害等の行為に出させたものと認むべき証拠はない。

(三)  小倉謙は、第五の一の(二)説示のとおり警備総本部長が玉村四一である関係上、同警備の機構上においては、その地位を定められていないが、警視総監として警視庁のすべての職員を指揮監督する職責上、当然本件の警備についても、玉村四一の上位にあつて、これを指揮監督すべき立場にあつたのである。そして、小倉謙及び玉村四一、藤沢三郎の各検察官調書(送付書類二〇編綴)によれば、小倉謙は本件の警備実施中、東京都議会に答弁のため出頭した外は、大体警視庁本部内の総監室或いは警備総本部室に在室していて、警備実施の状況につき警備総本部の報告を受け、警備総本部がとる指揮については、求めに応じ適宜これに指示を与えていたことが認められる。

しかし、右三名の各検察官調書によれば、六月一五日午後一一時過頃警備総本部から、このまま内張り警戒態勢を続けているならば、侵入阻止線に設置した輸送車は全部焼かれる状況にあるが、如何にすべきかとの指示を求められたのに対し、小倉謙は、輸送車は金さえ出せば買えるから、その損傷を防ぐために部隊を出動させてはならない旨の指示を与えたこと及び国会正門が危険となつてきた際部隊を構外に出動させることの可否につき指示を求められたのに対し、小倉謙は、部隊の出動も場合によつては已むをえないとしても、警棒の使用だけは避けられないものか否か慎重な検討をまず望む旨の指示を与えたことが認められ、小倉謙が本件の警備に関してきわめて慎重な態度方針をとつていたことは認められるが、同人が本件の警備実施に際して、不法又は不当な実力を行使する意図をもつて玉村四一の指揮につき指示を与えたと認むべき証拠はない。

又小倉謙は警備総本部がいよいよいわゆる第三次実力行使に踏み切つた際には、事前にその報告も受けていないのであつて、同人がいわゆる第三次実力行使に当り、玉村四一以下の本件被疑者らと共謀のうえ暴行陵虐傷害等の行為に出させたものと認むべき証拠は何一つ存しない。

二、末松実雄の第五機動隊長としての責任

(1)  末松実雄が第一方面警備本部長藤沢三郎から国会正門前恩給局側の学生を主とする群衆を人事院方向に排除する命令を受けたにかかわらず、第五機動隊を指揮し、同機動隊をして、恩給局側の群衆を人事院方向へは排除させず、国会南通用門前、衆議院車庫前、首相官邸前を経て、特許庁方向へ排除させ、加えて衆議院車庫前に滞留していた大研研までをも排除させたことは、前記第五の一の(三)の(6)、三認定のとおりである。

しかし、同機動隊がこのように結果的には第一方面警備本部長の命令に反して、衆議院車庫前、首相官邸方向に向つて行動をとつたのは、構外へ進出した際、前記第五の三の(二)認定のとおり、恩給局側の群衆が投石等により排除行為を妨害しつつ国会南通用門方向に後退し、国会南通用門手前の三叉路においても地下鉄第一入口附近に集結して右同様の妨害をし、衆議院車庫前、首相官邸前方向に後退したため、この相手側の動向に応じて臨機の措置をとつたがためであると認められる。又同機動隊が大研研までをも排除するに至つたのは、前記第五の二の(三)、三の(二)の(2)、(3)認定のとおり、末松同機動隊長が予め大研研の衆議院車庫前に滞留していることを知悉していなかつたことから、これを国会正門前から逃げてきた学生等の群衆の一部であると誤つた即断をして、排除すべき対象が国会正門前にいた学生を主とする群衆であることを知らないままの先行部隊がこれに接近して行くのを引き止めず、その後方から却つて「早く解散しなさい。」「抵抗する者は逮捕しろ。」と繰り返し告げたためであつたと認められる。

従つて、(1)末松実雄の大研研の存在に対する認識及びこれに対処すべき方法に関しての判断につき、部下隊員を指揮する立場にある者として欠ける点があつたことは別として、同人が大研研を大研研と認識しながら、第一方面警備本部長の前記命令に反し敢えてこれに不法又は不当な実力を行使することを企図して、同機動隊員に対しその排除を命じたものとは認められず、又同機動隊の部隊行動に際して、同隊員に命じ或いはこれと共謀のうえ、当面する相手側に対し暴行陵虐傷害の行為に出させたものと認むべき証拠はない。

三、第五機動隊員(隊長末松実雄を含む。)の責任

(一)  個々の加害実行責任者の特定

第五機動隊が大研研を右の如く排除した際、第五機動隊員中のなんぴとかが大研研の者に対し警棒その他これに類する持物又は手による殴打或いは足蹴足払い等を行い、その結果少なくとも大研研中六三名の者に対し傷害の被害を与え、そのうち一九名に対し右傷害に加えて単なる暴行の被害をも与え、その他一名の者に対し単なる暴行のみの被害を与えたと認められること、しかし審理を尽しても右各被害につき、当該被害に対応する加害警察官の氏名を個別的に特定することができないこと、右各被害の原因となつた第五機動隊員の行為が正当な職務の範囲内の行為或いは正当防衛又は緊急避難にあたる行為であると認めるべき証拠は見当らないことは、前記第五の四の(二)の〔5〕及び第六において説示したとおりである。

(二)  共犯者としての責任

しかし、右のとおり個々の被害に対する個々の加害実行者は特定できなくとも、若し、右全部の被害或いは特定できる一部の範囲の被害を第五機動隊員全員が共謀して加えたことが判明すれば、第五機動隊員全員に対し刑事責任を認めるべきであるし、又右全部の被害或いは特定できる一部の範囲の被害を第五機動隊員中特定できる一部の範囲の者が共謀して加えたことが判明すれば、その第五機動隊員中の一部の範囲の共謀者に刑事責任を認めるべきであるから、以下この点につき検討する。

(1) 第五機動隊員全員の共謀

第五機動隊員全員が排除活動に当り大研研に遭遇する前に暴行傷害を加えることにつき打合せ又はその他の方法で互に意思を通じて共謀したと認めるべき証拠は何一つ存在しない。それでは第五機動隊員全員が大研研に遭遇した後において暴行傷害を加えることを共謀したことがあるか否かの点であるが、証人高畑昭久の「私は首相官邸と衆議院車庫の間の路上において、前方五米位の地点で逃げて行く二八才位のワイシヤツ姿の男が背後から警察官に蹴られたのを目撃したが、その際手荒なことはやめろという警察官の声も聞いた。」旨の供述(受命)及び(66)服部正志の「警察官の中には手出しをする者としない者があり、警察官の中には乱暴する者としない者があるのかと思つた。」旨、(52)立花毅の「警察官の大部分は早く帰れと追い払うだけだが、五人に一人か一〇人に一人の警察官が道路左端車の間で、逃げるのに逃げられずにいる人達を殴つていたように思われる。」旨、(59)古田無の「私は車庫の角を左に折れて逃げのびた時、一人の警察官から早く帰りなさいとやさしくいわれたので、速度を緩めて行つたところ、いきなり別の警察官に右側から太腿の辺りを蹴飛ばされた。」旨の各供述(各検察官調書)等に照らすと、大研研の第五機動隊員による前認定の被害の全部を第五機動隊員全員が共謀のうえ加えたものと認めることはできない。又被害の範囲を特定し少なくともその範囲の被害については第五機動隊員全員が共謀のうえ加えたというような状況を認めるに足る証拠もない。それゆえ、本件被害の全部又は一部につき、第五機動隊員全員に対し共謀による刑事責任があると認めることはできない。

(2) 第五機動隊員中の一部の者の共謀

第五機動隊員中の一部の者が排除活動に当り大研研に遭遇する前に暴行傷害を加えることにつき打合せ又はその他の方法で互に意思を通じて共謀したと認めるべき証拠は何一つ存在しない。第五機動隊員が大研研に遭遇した後の状況については、前記各説に引用した各証拠及び民事事件の検証調書によれば、大研研が第五機動隊員による暴行傷害の被害を受けた場所は幅員一〇米ないし約二〇米の道路上長さ約五五〇米に及ぶ広範囲に亘るのであるが、その際第五機動隊員中には、相互の行動を認識できる程度の狭い範囲の同一現場で同一機会に、同隊員中数名の者が互に意思を通じ大研研の同一人又は数名の者に対し各自暴行傷害を加えた場合が若干はあつたと認められる。この場合にはその数名の第五機動隊員に対し、その者らが同一現場で同一機会に互に意思を通じ一名又は数名の者に対し加えた暴行傷害の範囲内においては、共謀の刑事責任があると認めるべきである。ところで、その場合でも、個々の被疑者に対しその刑事責任を問うためには、当該被疑者が右いずれかの現場における共謀者のうちの一名であることを特定しなければならない。しかし、本件の個々の被疑者につき、右各現場における共謀者のうちの一名であると特定するに足る証拠は発見できない。

結局本件被害の全部又は一部につき、第五機動隊員中なんぴとに対しても、共謀による刑事責任があると認めることはできない。

第八、結び

以上要するに、本件請求のうち、

一、別紙請求人名簿(二)掲記の請求人からの各請求は、請求権のない者の請求として不適法であり、

二、別紙被疑者名簿掲記の(259)、(357)の両名に対する請求は、死亡者を被疑者とする請求として不適法であり、

三、殺人未遂及び暴力行為等処罰ニ関スル法律違反被疑事実は、本件請求の対象とすることを法が認めていないものとして不適法であり、

四、別紙被害者名簿掲記の(122)ないし(128)の者に関する被疑事実については、いまだ検察官において不起訴処分の対象としていない被疑事実に関する請求として不適法であり、

五、その余の被疑事実については、いずれも第五機動隊員中のなんぴとかがその加害実行者であると認められるがその加害実行者又はその共犯者として刑事責任を負わせるべき被疑者を特定するに足る証拠がないもの或いは警察官がその加害実行者又はその共犯者であると認めるに足る証拠がないものであるから、結局本件各被疑者について犯罪の嫌疑不十分ということになり、「具体的被疑事実の何れの場合においても犯罪の嫌疑なしと裁定するのを相当と認める。」という理由の下に本件を不起訴処分に付した検察官の措置はその結論において相当であり、本件請求はその理由がないことに帰する。

よつて、本件各請求は、いずれも不適法なもの又は理由がないものであるから、刑事訴訟法第二六六条第一号に則りこれを棄却する。

よつて主文のとおり決定する。

(裁判官 飯田一郎 浅野豊秀 杉山忠雄)

請求人名簿(一) 略

被疑者名簿

(註) 本決定書において本表掲記の者を表示する場合は、すべてその氏名の上に本表の番号を付する。

例(1)末松実雄、(56)松田善次郎。

<表――略>

被害者名簿

不起訴裁定の対象となつた計一二二名(1~121、129)

本請求において氏名を掲げられた計七六名

第一次掲載――計六五名(1~3、5~21、24~34、37~41、43~71)

第二次掲載――計一一名(4、22、23、72、122~128)

(註) 本決定書において本表掲記の者を表示する場合は、すべてその氏名の上に本表の番号を付する。

例(1)福井正雄、(128)辻川浩。

<表――略>

〔編注〕編集にあたり、本決定文中に示されている決定書の頁数は、すべて省略したが、その旨の表示はしなかつた。

図〈省略〉

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